両手を開いたままでそこに視線を落としている彼女は、至極冷ややかな眼差しのままで瞳を上げた。 被験体と呼ばれるモルモット。 それを彼女は知っている。 「…殺せ」 イヤホンから声が聞こえた。 目の前で震える亜人の子供。 ss-der-0128は声に顔を上げた。 「…」 その声に答えずに亜人の娘は爪を翻す。 生きるために…。 生き残るために戦う。 他の存在を食らいつくしても、それでも生き残るだけだと胸の内側に言葉を刻んで口元だけで笑って見せた。 * 「…血を見たのは、いつだ?」 尋ねられてセラフィータは目を上げた。 殺伐とした彼女の瞳。 「誰?」 冷たい瞳だとトロネは思う。 反対に尋ねられ、トロネはかすかに目を細めた。 「…トロネだ」 「…そう」 言いながら、伸ばしっぱなしのピンクの髪をかき回す。 冷たい瞳。 「でも、それってトロネちゃんの本当の名前じゃないよね」 ただ、冷淡に響くだけのセラフィータと呼ばれる少女の言葉。 「わたしだってそうだもの」 つぶやいてセラフィータは立ち上がると歩き出した。 セラフィータにとって、セラフィータという名前は彼女を彼女であると周囲が認識するためにつけた識別番号と対して代わりのないものだった。 だからこそ、彼女にとってその名前は大した意味があるものではない。 「…セラフィータは、閣下に感謝していないのか?」 唐突に尋ねられた。 「しててもしてなくても、そんなことトロネちゃんには関係ないでしょ?」 自分の内面に深く立ち入ってほしくなくて、セラフィータは目を伏せた。 人間以下の「もの」として扱われてきたこと。それを、トロネが知れば、彼女もまたそうするのではないかという恐怖感があったのかもしれない。 セラフィータは表情を隠すようにしたまま訓練施設を立ち去ろうとすれば、トロネと名乗った少女は乱暴に彼女の腕を掴んだ。 自分とは比べものにならないほど強い力に、一瞬だけ呆然とした亜人の少女は強い瞳を相手に返してからエーテルを解き放った。 「…っ!」 鈍い音があがる。 とっさに顔をかばったトロネは、銀色のエーテル波を放つピンクの髪の少女の瞳が怒りに満ちていることに気がついた。 「トロネちゃんの名前、なんて言うの?」 「…? どういう…?」 「…あたしには名前がないの。生まれてから、ずっと被験体だったから…。だから、あたしは人じゃないの。人じゃないもので…、あたしはただの動物…。トロネちゃんは、トロネちゃんになる前は、幸せだった? その幸せってどんなものなの? あたしのこと、知りもしないで…、知ろうともしないで、あたしに立ち入らないで…」 自分という人間の奥深くにあるはずのものが、セラフィータには見えない。 自分が、はたして自分なのか。それとも、その「自分」ですらも作り出されたものなのか…。 それが彼女には見えない。 「ドライブなんて…」 あたしにはきかない。 リアレンジもきかない。 いっそのこと、全てを忘れてしまうことができたなら、どれほど楽だろう…。 それらのことをぼんやりと考えながら、セラフィータはトロネを見つめている。 「トロネちゃんが、羨ましいよ…」 つぶやいたセラフィータの瞳から、一筋だけの涙が伝う。 「あたしはあたしなの…? あたしは誰? あたしには命があるの? あたしは何なの? どうせなら、感情なんて持たない人形なら良かったのに…。あたしはどうしてここにいるの?」 こぼれ落ちる涙にトロネは呆然とした。 銀色の波動が静かに、しかし、確かな狂気性をもってゆっくりと流れていく。 嵐の前兆なのだと、トロネは思う。 「セラフィー…」 呼びかけたトロネの声を彼女の感覚が無視をする。 風が木の葉を揺らすような音が響いたその一瞬後。 爆発音が響いた。 「…セラフィータ!」 叫ぶトロネの声など聞こえていない。 セラフィータはただエーテルを暴走させたままの意識の片隅で感情が音を上げたのを聞いたような気がした。 * 「…あれは誰?」 幼いss-der-0128がつぶやいた。 ガラスの扉の向こう側にいる、長い銀髪の見慣れないドクター。 ss-der-0128の相手をしていた研究員は、少女の視線を追うようにしてガラス扉の向こうを眺めた。 「…あぁ、あれは、ドライブ研究のプロジェクト・チーフだ」 「どうして来たの?」 ドライブ研究のプロジェクト・チーフなどがどうして自分に関与する研究室に来たのかと、率直な疑問を投げかけたそのとき、扉が開く音がした。 「少し出ていなさい」 研究員の男にぞんざいな言葉を投げかけた女のネームプレートには「EV-Project」とあった。 「はい」 彼女の言葉に促されるようにして室外に出た男は、ガラスの向こうから二人の様子をうかがっている。 「おまえがss-der-0128?」 「…うん」 「そう」 言いながら、彼女はテーブルの上に注射器とアンプルを用意する。手早くアンプルを切って準備を終えると、アルコールに浸された綿を指でつまむ。 「…注射するの?」 「そうね、今のところ、それ以外のものでこのドライブを準備していないのよ。悪いけど注射させてもらうわ」 冷淡な言葉を吐き出した女はそうしてss-der-0128を振り返った。 「…また、お薬?」 おびえた表情で後ずさる子供に、冷徹な瞳を向けたままの女は、しかし、少女が威嚇して全身から放つエーテルの波動におびえることもない。 「そうよ、腕を出して」 彼女の赤茶の瞳が少女には恐ろしい。 冷徹な無表情。 「…やだ」 殺気だったエーテルを放ちながら体を引いた少女に対して、女は大股に何歩か進むと無造作にss-der-0128の腕を掴んで引き寄せる。 「や、いや! やだぁ!」 叫んで抵抗する少女が、思い切りエーテルを放つ直前だった。 「無駄な抵抗はおやめなさい!」 一喝される。 強い赤茶の瞳が、少女をにらみつけた。 「抵抗すれば、ドライブを打たれないですむと思っているのなら、それは思い違いだと言っておくわ。抵抗して、薬を打たれないでいれば、おまえはただ殺されるだけ。生き残るのと、死ぬのとどっちがいい?」 冷笑する若い女は腰をかがめるようにして少女の顎を引き上げる。 「…ぅ」 うめくように言葉を失った少女は女の瞳を見つめたままで身動きがとれない。 「…し、知らないくせに!」 殺されるのかもしれないと言う恐怖に駆られながら、少女は力一杯叫んだ。 「知らないくせに! すごく苦しいのに…、すごくつらいのに…! なのに、どうしてそんなひどいことばっかり…!」 必死で叫んだだろう彼女に女は動じなかった。 「…おまえ、苦しいのはおまえだけだと思っているの?」 氷のように冷ややかな言葉。 それはまるでとぎすまされた刃のようだった。 それはまるで、自分もその苦しみを知っているのだと言わんばかりだ。 「…子供なら、優しくされると思っているの? このソイレントで?」 くすくすと彼女が笑う。 耳障りな女の笑いに、ss-der-0128は思わず両手で耳をふさいだ。 「おまえだけじゃないのよ。モルモットは」 言いながら、強引に少女の腕を引き寄せた女は何でもないことのように、彼女の皮膚に注射の針を突き立てる。 「…わたしは、生まれたときから薬漬けだったのだからね」 吐き捨てるように告げた彼女の濁った赤茶色の瞳。 「おまえ、殺されてもいいのなら、全てを拒絶すればいい。与えられた中で、生きるための最大限の努力もしないで馬鹿な抵抗だけしているのは愚か者よ。生きるために、他人を殺さなければならないのなら、殺してでも、なにをしてでも生き残ることくらい考えられないの?」 言い放つ彼女にぎょっとする。 「…お薬、苦しくなかったの?」 「…もう忘れたわ。そんなこと」 苦しかったこと…。女が忘れたわけではない。 しかし、どうでも良いことのようにつぶやいて、針を引き抜くとアルコール綿で針痕を拭った。 「十四時二八分」 言ってガラス扉に足を向けた女がもう一度、少女を振り返った。 「…生き抜く力があるなら、やってみせるといい」 他人を殺して生き残ればいい。 * 「生きる力…」 ぼんやりとした意識の中で、セラフィータはつぶやいた。 「…あたし」 あたしは誰? あなたは誰…? 「そんなことはどうでもいいこと」 セラフィータがまだ幼かった頃、たった一度だけ彼女の前に現れた銀髪のドクター。強い瞳を持った「元被験体だった」と臆面もなく言い放った女の声がよみがえる。 「…私は私よ。モルモットでも、なんでも…」 彼女がそう言っていたこと。 「…うん」 脳裏に刻まれていた女の声に、セラフィータは顔を上げた。次第にはっきりとしていく意識の中で立ちつくしているトロネを見た。 何度も深呼吸を繰り返し、自力でエーテルの波動を納めていくセラフィータはやがて、剣呑な空気を体内に沈め込んでため息をついた。 「…ごめんね」 崩れ落ちるように床に倒れたピンクの髪の亜人の少女を抱き留めて、トロネは息を吐き出すと視線を天井に上げた。 「手のかかる奴だな」 「…あたし、ss-der-0128って言うの…。閣下からもらった名前は、セラフィータ…」 彼女のようになりたかった。 かつて、一度だけ出会った女のような強さがほしかった。 だからこそセラフィータは全てを受け入れる。 「モルモットでも、仲良くしてくれる?」 彼女の言葉に、トロネは思わず拳をピンクの頭に振り下ろした。 「…おまえがモルモットだろうが、なんだろうが、俺には関係ない。だからそうやって自虐的になるのはやめてくれ」 言い放ったトロネの目の下に、ネジを見つけてセラフィータは子供のような笑顔をたたえてから彼女に抱きついた。 「うん、大好き!」 「あのなぁ…」 「大好きになるから。トロネちゃんのこと。だから、トロネちゃんもあたしのこと大好きになってね…」 告げられた言葉。 抱きついてくるセラフィータの体を抱き留めながら、トロネはその言葉の重さに苦く笑った。 「わかったよ」 被験体であるということ…。 自分たちが同じ身の上であることは、合点がいった。しかし、セラフィータはそれを肯定して受け入れようとする。 そんな彼女を目の当たりにして、トロネは傷をなめあうわけではなく、彼女を大切な友人の一人として大切にしたいと思った…。 |