呼び掛けられて目覚めると、日向が立っていた。
見慣れない…スーツ姿をしている。
この前、長かった髪をばっさり切ってしまったから、こんな格好をすると起き抜けの頭では誰だか一瞬わからない。
帰ってきたのかと思いながらカーランが起き上がると、彼は微笑んで言った。
「いままで、お世話になりました」
唐突に発せられた言葉に、カーランが二の句を継げられずにいると、日向は勝手に得心した様子で踵を返した。
ぴしりと糊のきいたスーツ、綺麗にカットされたうなじ。
今まで日向が持っていた、どことない曲線のイメージは砕かれ、そこには鏡面のような直線があった。
「待っ…!」
ドアを出ていこうとする後ろ姿に、カーランはようやく声を上げ…その自分の声で、目を覚ました。
静かな室内に、カーランの乱れた呼吸の音だけが激しく響いた。
のろのろと彼は体を起こし、立てた膝をゆっくりと抱え、胎児のようにうずくまると、カーランはしばらく息を整えた。
…嫌な夢だった。
明日にでも本当になりそうな現実感が嫌だったし、何よりも日向を失うことが嫌だった。
空いたベッドの片方を、膝に顔を埋めたままカーランは見やる。
日向のために空いている場所に、本人はいなかった。
ちょうど夢に出てきたのと同じ格好で、三週間も前に彼は兄の家に行った。何度か電話はあったが、顔は見ていない。
無意識にカーランは指に嵌めてある白金のリングを噛んだ。そうすることで寂しさを紛らわそうとでもするように。
やがて落ち着くと、彼は再び柔らかな毛布の中に潜り込んで、固く目を閉じた。もう悪夢が襲ってこないように、しっかりと。『シュウショクカツドウ』という言葉を日向が何度か口にするようになったと思ったら、ある日ばっさりと髪を切って帰ってきた。
「日向おまえ…まだ三年だろ?」
「はい。四月からは四年です。でも早い人はもう内定出てますからね」
「そうなのか?」
「なんだかんだ言って、早くなってるんですよ…」
「ふうん…」
短い髪の日向は別人のようで、カーランは少し戸惑いながらも、その黒髪をいつもと同じように撫でた。
その週の日曜、カーランは新しいスーツを買うのに付き合わされた。
デパートでは「フレッシュマンフェア」なんてものをやっていて、どれも同じように見えるスーツをああでもないこうでもないと、日向は延々悩んで一着だけ買った。
帰りに寄った公園では沈丁花の強い芳香が漂っていて、頭のあたりには梅、足元には水仙と、なかなか春の訪れを感じさせる風情だった。
天気も良かったので、ひなたのベンチにふたりで座った。
ぽかぽかして昼寝日和だったが、日向が切り出したのは深刻な話だった。
「ねえ、カール。…私、就職活動中は、兄のところに行こうと思うんです」
「え?なんでだ?」
「私の履歴書の現住所、何処になるか知ってます?」
「…ウチだろ?」
「ええ。部屋番号まで書くでしょう。その後ね、カッコのところに『カーランラムサス様方』って記入するんです」
「様方?」
「はい。そしたら聞かれるでしょう、誰かって。…そしたら私、どうしようかなって。別にカールと住んでるの恥だとは思って無いし、私とカールは恋人ですよっての、誰に言ってもかまわないんですけど…」
「就職試験でそういうこと言うな」
「でしょ?でも友達とかって言っても説得力ないし。実の兄が二人もいるわけですから…なら変なトコ突っつかれる前に兄の家に現住所移しておいて、内定奪い取ったら戻ってこようかなって、そういう都合のいいこと考えたんです」
「確かにな」
カーランはベンチから立ち上がり、ゆっくり歩き出した。大荷物の日向が慌ててその後を追い掛けて来る。
頬を撫で、髪を揺らして行く風は強いがあたたかい。春は来ている、確実に。
だがすぐ隣にいる恋人が持ち掛けてきているのは別れ話だ。
それがたとえ一時的な…急場しのぎのものだとしても、カーランにはなんとなく日向が奪い取られて行くような感覚があった。
「カール!ちょっと、もう!怒らないでくださいよ!」
「どうせおまえのことだから、もう全部決めて俺のとこに話をもって来てるんだろ?だから腹立つんだ、相談も無く!」
「…相談したらもう少しイイ案出ました?私がカールんとこ出ずに、履歴書に様方って書かない方法」
「登記簿書き直す」
「…直してる間に試験終わっちゃいますよ」
「だから早めに言ってくれれば…もういい、決めたんだろ?」
カーランはくるりと振りかえり、口調を改めた。
ケンカしたところで日向が出ていくのは止められまい。気まずくなってわかれるよりは、嘘でも納得したフリをして、送り出したかった。
「ええ、まあ」
日向は上目遣いにカーランを見た。
「…カール、まだ怒ってるでしょ?」
「いや、もういい」
「怒るなら最後まで怒ってていいですよ。これは私のわがままなんだし、自分でも恩知らずだなーって思ってますから。そうでないと体に悪いです」
「うん…でも、いい。もう俺が怒っていたくないんだ。俺が怒っても怒らなくても、どっちにしてもおまえは兄貴ンとこ行くんだし。だったらいつまでも怒ってるよりは、『行って来い』くらいの強がり、言ってもいいだろ」
そうカーランが言うと日向はようやく微笑んだ。
「そういうこと真ッ正直に言うからかわいいんですよね、カールって」
公園で短いデートをした翌々日に、日向は2番目の兄の家に行った。
距離にすれば自転車を飛ばして15分程度の場所だったが、あいにくカーランの仕事範囲と反対側で、仕事のついでに顔を見ることもできないままの三週間だった。
目を閉じたものの寝付かれず、カーランはごろごろと寝返りを打った。室内は淡く青い光に満ちている。物憂げな光はガラスの蝶から発せられるものだ。日向がバニーに凝っていた頃はピンク色にしていたが、ひとり寝でピンクはあんまりなので、元に戻したのだ。
時計のデジタル表示は午前1時半を指している。まだ仕事に出るには間がある。だが日向はもう眠っているだろうから、電話はできない。
そういえば、日向の携帯ナンバーはカーランの電話の短縮ダイヤルに入っているのだが、一度も活用されたことはない。
日向の電話は決まって朝で、カーランがひと仕事終えて帰ってくるのを待っていたように決まった時間にかかってきた。
なんで朝掛けるんだと聞いたら、『夜だと変な気分になっちゃうから』とはぐらかされた。
「うちにいる時は夜も昼もないくせに…」
『あー、駄目、そういうこと言っちゃ駄目!禁欲生活なんですから!もう!元気なら切ります!おやすみなさい!』
短い電話で、それでもしばらくカーランは安心していられた。
日向は第一志望にしている会社の筆記を通過し、二次面接までとんとんと進んでいるときいた。残るのは最終面接で、社長クラスの人間と顔を合わせるのだと言っていた。
最終面接の日がいつなのかは聞いていない。
それでも無性に声が聞きたかった。
あんな夢を見たせいだろうか?
枕元に置いてある子機をぼんやり眺めながら、朝になったら電話をかけてみようと思っていると、そこから唐突にけたたましい電子音が鳴り響いた。
びくっと体をすくめてから、カーランは子機を取り上げた。これで間違いだったら泣ける、と思いながら「もしもし?」と問い掛けると、「遅くにすいません」と掠れた日向の声がした。
「日向…?なんだ、こんな時間に」
『すいません…どうしても、寝れなくて。明日最終なんです、らしくないでしょ?緊張して寝れないだなんて…』
「…仕方ないだろ、人間なんだから」
『そう言ってくださると…あのね、カール』
「なんだ」
『ちょっとでいいんで…私を抱いてるつもりになって呼んでくれませんか、名前』
「ああ?」
『抜いたら寝れるかなってトイレまでは来たンですが…あなたの声聞きながらのほうが、いいだろうって思って…そろそろ起きてる頃かとも思ったし』
ようやくカーランは何故日向の声が掠れているのか合点がいった。だいぶ切羽詰まった状態なのだろう。そう思った途端、カーランも自分の身の内に熱を感じた。電話を持ったままカーランは仰向けに転がり、股間に手を持って行ってみた。…日向が朝言ったこともあながちハズレではない。
『カール…?』
「ああ…あんまり声出すなよ」
『出しませんよ、大丈夫…はやく』
「日向」
『んっ…』
鼻にかかった声を上げ、受話器の向こうで日向がわずかに喘ぐのがわかった。自分自身をゆっくり揉みしだきながら、カーランは日向の名前を何度も呼んでやる。日向の押し殺した声と、激しい息遣いだけで、カーランは自分がどんどん昂ぶるのを感じていた。
日向を呼ぶ声が次第に上ずっていく。
『カール…、い、あぁっ、…んッ!』
声だけの日向が絶頂に達した瞬間、カーランはぞくりと背筋を震わせ、計らずもそれは射精感に繋がり、息を飲んで彼は短く喘ぎ、指を伝う熱い液体の感触を感じていた。
電話の向こう側で、日向がふうと息をついた。
「…イッたな、日向?」
『はい、すっきりと』
「おやすみ」
『え?あ、やだ、カール、ちょっ…』
カーランは子機の電源を切って、床に放り投げた。それからパジャマの下だけ脱ぐと、それを洗濯機に放り込むために彼は猛然と立ち上がった。その日の夕方、カーランはいつものようにジェスの散歩を終えてエレベーターホールにいた。
夕方と言っても、もう春の日はすっかり消えて暗くなり、宵の口独特のまどろむような空気がたち込めている時間。
会社勤めの人間が帰るにはまだ早く、デパ地下を縄張りにしているマダムには遅い時間。滅多にここで人に会うことはない。だが今日はカーランの背後から固いヒールの足音がした。
「…あら、お久しぶり」
カーランはむっとしながら「どうも」とだけ言った。しなやかな足取りで隣に立った美和を、カーランは見ようともしない。
彼女はカーランの育った施設を援助していた会社…アラボトコーポレーションの理事付き秘書だ。社長直々の申し出をカーランが断ったその週の間に、彼女は妹ともどもこのマンションに引っ越ししてきた。
「…嫌われたわねえ、私も」
苦笑混じりに言う彼女自身に恨みがあるわけではないが、カーランとしてはなんとなく監視されているような気分になるのだから仕方ない。
到着したエレベーターに乗ると、後ろの壁に彼女はもたれて、「そうそう」と何か思い出したように言った。
「六道日向くんて、あなたと仲良しの日向くんでしょ?」
思わずカーランは振り向いてしまい、「食い付いたわね」という美和の笑顔をまともに見た。腕を組むと豊かな胸がいやに目立つ。
「髪切ってたから一瞬わからなかったわ。現住所も違ってたし。最近見かけないと思ったら、引越ししてたのね」
「あんたには関係ない」
「あらそう?今日、ウチの社長面接に来てたのよ。優秀なのね、彼」
「…社長面接?」
「聞いてないの?…そうねえ、あなたとウチの理事が険悪なの知ってれば、隠すかもしれないわねえ…」
ますます表情を険しくしたカーランを、美和はちらりと見て首を竦めた。
「私個人としては彼の判断を賢明だと思うわ。彼が大学で学んで来たことを、我が社なら他社のどこよりも引き出せると思うから。まあ、内定が出ればの話だけど、社長の受けも良かったし、特に他に問題がなければいけるんじゃないかしらね」
カーランは美和の言葉に、自分が日向が大学で所属している学部すら知らなかったことに気づく。そして、彼を招こうとしたデューン氏率いるその会社が、何を生業にしているのかも。
エレベーターが停まり、美和が意味深な笑顔とともに降りていったことに、カーランは気づかなかった。ようやく最上階まで着いたことにも、ジェスがリードを引っ張らなければ気づかなかった。
そして、カーランが夕食を済ませた頃、電話が鳴った。
『内定が出ました!』
弾んだ日向の声に、カーランはひどく傷ついた。
「知ってる」
『え?』
「アラボトコーポレーションだろ。秘書が言ってた」
『え、うそ…そういうのって社外秘じゃないのかなあ…』
「なんで俺に黙って受けた?」
『…カール、私今からそっち行きます。それまで待っててください、私を怒鳴る言葉をいくつか考えてても構いません。私は私の正当な理由であの会社を受験したつもりですから…これだけは譲れないんです』
「わかった」
受話器を戻す手は震えた。
リビングのソファに座って、それから日向が来るのを待っている時間は永遠に思えるほど長く感じた。
それでも、カーランは唇を結んで座っていた。
逆巻く感情を押し殺し、昨夜見た夢が現実にならないことだけを祈りながら。やがて日向が戻ってきた。
「ただいま帰りました、カール」
「…おかえり」
日向の姿を見た途端、カーランの気力は何故だか萎えた。
出て行った時よりスーツ姿がこなれて見えるせいか、少し痩せたように見えるせいかはわからない。こんな短期間にわかるほど痩せるとは思えないが、なんとなくやつれて見えた。
生真面目な顔で日向はカーランの前に座った。犬猫が懐かしがって擦り寄ってきたが、雰囲気を察したのかすぐに離れていった。
「言い訳させてもらっていいですか?」
「その前に履歴書出せ」
「え?どうして?」
「俺が知らないことをあいつらが知ってると思うと腹が立つ」
日向はきょとんとして、苦笑しながら荷物の中を探し、封筒から一枚引っ張り出してきてカーランに渡した。
「たくさん書いたの捨てなくて良かった。…でもこんな紙切れに嫉妬しないでくださいよ」
「こんな紙切れにおまえは人生の選択かけるんだろ」
「はは…まあそうなんですけど」
カーランは日向の履歴書をじっと眺めながら、ぽつりと言った。
「…俺はおまえが何処のなんて大学行ってるかも知らなかった。だから俺がおまえの就職先にどうこう言うのはたぶん間違ってる。それにおまえはもう決めてしまったら覆さない…俺がいくら怒鳴って止めても。それでも、理由はちゃんと聞かせてくれるな?」
「もちろんです。正直、私は驚いたんですよ…あなたとあの会社の間に、少なくとも関係があったってことを。だから志望も考えました。どう考えてもあなたを傷つけるだろうと思ったから。でも…それはあなたと彼一個人の問題であって、私と会社組織とはなんの関連も無い。もし私が最初からあきらめて志望を取りやめて、後になって『あの時やっぱり受験をしておくんだった』って思うのは嫌だったんです」
「…なんで黙ってた?」
「あなたに反対されて、意思を通す自信がなかったから」
「まさか…!」
「カール、私はあなたが思ってるほど強い人間じゃありませんよ」
そう言うと、日向は伏し目がちに視線を落として指を組み、酷く儚げに微笑んだ。
「できればね、私は流されてしまいたい。あなたの愛情だとか、庇護だとか、そういう暖かい大きなものに包まれて、ぬくぬく暮らしたい。…でもそれは、あなたがジェスやシグルドに与えるのと同じものでしょう?それでは嫌なんです。私はできればあなたに同じだけの愛情や庇護を与えたい。経済的にもあなたに頼るんでなく、自立したい。…流されたいのと同じくらい、私はあなたと同じ場所に立ちたいんですよ、カール」
そのための一歩なんです、と付け加えて日向は目を閉じた。
カーランは言葉を見失って黙っていた。
沈黙が答えではない。だが、彼にはどうしても今の日向に与えるべき相応しい言葉が見つからなかった。ただひとつだけの消えない疑問以外には。
「…日向」
「はい」
再び上げられた黒い双眸を、カーランは見つめ返す。
「ひとつだけ、ききたい」
「なんですか?」
「…俺はおまえを失わずに済むか?」
ちょっと驚いたように、日向は目を見開き、それからふと表情を綻ばせ、かすかに微笑んだ。
「あなたが私を追い出さない限りは」
「そんなことしない。ひとりだと飯作りすぎて困るんだ」
「ひどいなあ…人を残飯処理係みたいに」
日向はつと立って、ソファに座ったままのカーランに腕を伸ばした。もつれ合うようにしてふたりはソファに転がり、カーランは日向の体の重さを感じながら深く唇を合わせた。
久しぶりの感触を貪りあっているうちに、昨夜の火種に火がついたようだった。
一旦身を起こして暗い寝室に移動し、日向は鬱陶しそうにスーツを脱ぐとカーランを抱きしめた。短くなった髪をさわさわと撫でながら、カーランはその耳やうなじに口づけながら囁いた。
「…就職祝にいいものやろうか」
「なんです?」
「ここの登記簿。おまえのぶん」
「…それって」
「そしたらサマカタなんざつけないで住所書けるだろ」
「…時々すごく豪気と言うか太っ腹ですよねえ…でもうれしいです、ありがとう、カール」
日向はするりと身を翻し、カーランをベッドに押し倒して微笑んだ。
「そうそう…昨日の声すっごく色っぽかったですよ、カール。そう、カールあの後速攻切っちゃったから聞けなかったんです。私と一緒にイッてくれたんですよね?」
夜目にも赤くなるカーランを見て、日向はまた「可愛いなあ」と呟くと、何か反論したそうなカーランの唇をむきゅっと塞いだ。
《了》