「家庭教師?」
「ええ。週2回」
「どこでだ?」
「すぐ近くです。小学三年生の男の子。帰国子女なんです」
「…ふうん」
「まだ日本語達者じゃないから、なーんか小さい子供みたいなしゃべり方するんですよ。『センセ、センセ』って」
そう言う日向がやけに嬉しそうで、カーランはまだ見たことも会ったこともない年下の少年に軽い嫉妬を覚える。
「…可愛いんだな」
「ま、子供ですからねえ。翁飛鳳くんって言って」
「…なんだって?」
「ウォンくんですよ。家じゃ名前の上のほう取ってフェイくんって呼んでますけど」
一瞬、なんだかすごくヤな雰囲気の名前だなと思ったのだが、何故そう思うのか、カーラン自身でも理由はわからなかった。日向が見つけてきたバイトは家庭教師だった。
生徒は父親の転勤で中国から日本にきてまだ日の浅い、翁飛鳳…ウォン・フェイフォン…、8歳。簡単な日常会話、つまり挨拶レベルの日本語しか話せない彼に3ヶ月間日本語で勉強を教えるのが、日向の仕事だった。
穏やかで人当たりの良い日向をフェイは気に入ったらしく、それこそ腹を減らした猫のように「センセ、センセ」を繰り返して日向について回った。
フェイはなりこそ小さいが、少林寺拳法だかなんだか武術を習っていて、週3回は近くの道場に通っているのだという。
「…でね」
「日向」
動く日向の唇を強引に塞いでから、カーランは真面目な顔で言う。
「他の男の話はするな」
「…男って、全然子供じゃないですか」
「でもヤだ」
駄々をこねるようにぎゅうっと日向を抱き締めるカーランに、日向は「甘えっ子なんだからー」と苦笑する。
「心配しなくても私、ショタコンの傾向はありませんから」
ぽんぽんと宥めるように背中を叩いてそう言えば、カーランはふと顔を上げる。
「…ショタコン?」
「正太郎コンプレックス。ロリコンの男の子版」
「あったら困る」
くすくす笑っていた日向は、ふとなにか思い出したようにカーランの顔を覗き込んだ。
「ああ、そうだ、ねえカール、買い物行きましょう買い物。そろそろ鍋も食べたいです」
「土鍋が無い」
「だからそれを買うんじゃないですか!ね、ジェスの散歩がてら。行きましょうよ?」
至近距離で微笑まれて、カーランが拒めるはずも無く。
二人と一匹は散歩がてら買い物に出かけた。* …買い物はカーランの担当である。
日向に買いに行かせると、長いのだ。おまけに買いすぎる。滅多に自分じゃ買い物なんか行かなかったから、と日向は苦笑し、それからは店内を回ってくるのはカーランの仕事になっている。
今日はジェスも一緒だから、日向は温かい缶コーヒー片手に表で待っている。
秋とはいえ、夕暮れ時はずいぶん寒くなった。コートにはまだ早いが、そろそろマフラーは欲しいかもしれない。それに風が少しあるから、15分も外に立っていたらかなり冷える。
カーランはてきぱきと動いて、おばちゃんの群れに紛れてスーパーで特売の肉や魚や野菜を買い、ついでに小さな土鍋を買ってスーパーの外に出た。
日向はすぐにカーランに気づいて顔を上げた。彼の足元にはジェスの漆黒の体ともうひとつ、小さい影がまとわりついていた。
小さいのは日向につられたようにカーランを見、露骨に「なんだコイツ」という顔をした。
「すみませんでした、カール。重かったでしょ」
「そうでもない」
カーランは日向に歩み寄り、威嚇でもするようにわざと上から少年を見下ろした。日向がカーランの手からビニール袋をひとつ受け取る。
「誰だ?」
「ほら、さっき話したフェイ君。道場の帰りだって言うから、ちょっと話をね」
「ふうん」
気の強そうな黒い目で、彼はカーランを見上げている。「へ」の字に結んだ唇が、余計に気に障る。
その視線に込められた意味を、彼は敏感に察知した。
…日向も同じだったのかもしれない。
スーパーの袋を持ち直し、ジェスのリードを手首に巻きながら、彼は言った。
「あ、じゃあフェイ君、また月曜日ね」
「んー、わかった。じゃ、センセ、再見」
「はい、さよなら」
くるりと踵を返して軽やかに駆けて行く少年の後姿を見送ってから、日向はちらりとカーランを見上げた。
「…大人気無いですよ?」
「…」
「カール」
ふいと早いペースで歩き出すカーランの後を、ジェスを連れて日向は追う。
勝手にしろとでも言うように、ジェスは自分のペースを崩さずに歩いて行く。ところどころで彼のお気に入りの雌犬に挨拶しながら。
「…まったくもう…」
子供の独占欲になんか、まともに付き合ってたら付き合い切れないのに。
日向はそう思いながら息を吐いた。* それからずっと、カーランはなんとなく不機嫌だった。
夕食を食べてから、リビングのソファに座ったきり動こうともせず、見るでもなしにテレビの画面を見ている。やれやれと日向は腹をくくり、その隣に腰を下ろした。
「カール」
「…」
「返事くらいして下さい」
「…なんだよ」
「文句があるなら、言って下さい」
「別に…」
「無いンなら、機嫌直して下さい」
「…自己嫌悪してるだけだ」
「は?」
「あーんな乳臭いガキに嫉妬してる自分がヤなだけだ」
そう言ったカーランは、手のひらで顔を覆った。
その反応に、日向は肩の力を抜く。こみ上げてくる愛おしさに任せてカーランに抱き付いた。
「…貴方って人はどうしてそうなんでしょうね」
「何がだ」
「時々殺人的に可愛いコト言いますよね」
「ドコが…」
「自覚ないから、また凶悪なんですよね」
「だから…!」
照れ隠しに声を荒げるカーランから、日向はついと身を離す。
「そうそう、土鍋が火にかかったままなんでした」
明日は鍋ですねー、などと言いながらキッチンに行ってしまう日向に、カーランは金色の髪を手でくしゃくしゃと混ぜた。
「…凶悪に可愛いのはどっちだよ…」*
「…時々ねえ、錯覚起こすんですよ」
「ん…?」
とろとろとまどろみかけていたカーランは、枕に半分顔を埋めたままで日向の声に返事をする。
さっき捕まえ損ねたお返しと、あとほんの少しの嫉妬を込めてカーランは日向の体をかき抱き、思いがけないほど乱れた日向に我を忘れ…結局ぐったりするまで頑張ってしまった。
「自分がね、大きな金色の鷲に捕えられた獲物みたいに、感じられるんです」
「…鷲か、俺は?」
「ええ…まあ、でも私は望んで捕えられたわけですから…その爪で引き裂かれようと、嘴で傷つけられようと…かまわないんですけれどね」
そんなに酷いことはした記憶がないぞとカーランが言えば、日向は「モノの例えです」と笑った。
「だからね、カール。私は何が怖いって、貴方にそっぽ向かれて腐っちゃうのも、大事にされすぎて腐っちゃうのも怖いんですよ」
日向はそう言って体の向きを変え、カーランの首に腕を巻きつけた。
「…食ってるだろう、俺はちゃんと」
「ええ…でもね、今日はちょっと、感じ方変わりました」
「んん?」
「私もそれなりに、貴方を支配できてるんだなって。少なくとも嫉妬させられるくらいには」
「当たり前だ…どんな鷲だって獲物がなきゃ飢え死にする」
薄く目を開いて、カーランは日向を抱き寄せる。温かい人肌は毛布よりもずっと心地よい。
「…も、寝るぞ」
「ええ。おやすみなさい、カール」
睦言みたいに囁いて、日向は目を閉じた。*
…週明けの月曜日、日向は予想通りの質問にこう答えた。
「カールは私の大事な人です」
「…どんなふうに?」
「命の恩人」
こればっかりには、反論できなかったのだろう。ふいと目を反らすフェイに、日向は微笑む。
「…でも、オレだってセンセのこと好きだから」
「ありがとう。でもそのセリフはせめて10年後にしてくださいね…、はい、フェイ君、教科書持ってきてください」
勤勉な家庭教師の顔で、日向はそう言った。《了》