「マフィアの犬?」
 カールさんはネクタイをひきぬきながら眉間に皺をよせました。
「…おまえ、マフィアに飼われていたのか…。」
 そばにいってじっと見上げている犬の頭を撫でると、犬はぱたぱた尻尾を振りました。
「カール、ウヅキ先生がおっしゃってたけど…ウォンさんの犬にこの子、怪我をさせたみたいね…。」
「怪我?…ああ、ぎゃんっとか吠えてたな…でも血もなんも出ていなかったぞ。…確かめてる余裕もなかったが。 こいつ物凄いバカ力で…。向こうは振り回されて綱をはなしてしまったし。ニ頭でぐるぐるダンゴになってたのをひきはがしたんだ。 難儀した。」
 カールさんは淡々と言うと、犬のほうを見ました。
「…うーん、おまえも主人のところへ帰りたいだろう?…黙っているわけにもいかんな…」
 そこへケルビナがやってきました。
「にゃーん、お父さんおかえりなさいー。」
 足に体をすりよせます。
「ああ、ケルビナ。いい子にしてたか?」
「にゃ〜。」
 カールさんがケルビナをだっこしてくれました。
「ケルビナ、おまえの犬の本当のうちが見つかったんだ。…かえさなくちゃいけない。どうしよう?」
「…イヤ。」
「…いやか?…そうだろうな。でも仕方が無い。うちの犬じゃないから。」
「うにゃ〜うちで飼いましょ、お父さん。」
 カールさんはケルビナをなでなでして、下におろしました。
「…どうやって返して来ましょうか…。」
 ミァンさんが低い声でいいました。
「…連れていってくるよ。仕方がない。」
「え…そんな直球なの?危険よ。」
「…犬がドーベルマンかボクサーだったら危険かもしれんが…アフガンだからな…。 多分愛犬家だろ。 どうってことないさ。…返すまえに一応美容院いっとくか。…ウヅキは診てくれたんだろう?何か言ってたか?」
「大丈夫だろうって…でも外を歩かせたとき、びっこをひいていなかったか聞いていたわ。」
「ああ、大丈夫だった。」
「じゃあ大丈夫なんじゃないかしら。…事故のことは黙っててもいいと思うって、先生言ってらしたわ。」
「…可能ならそうしよう。」
 カールさんは犬の背中をぽんぽん、と叩きました。
「…おまえはいい子だ。きっと主人も大切にしていたに違い無い。おまえの顔を見たらきっと喜ぶだろう。」
 すると犬はくるりと向きを変えて、急にケルビナのほうを向いた。
「えっ?!」
 ケルビナがどきっとすると、犬はわっさわっさと軽い足取りで近付いてきて、はふんと座り、急にケルビナをなめ始めた。
「うにゃ〜どうしたの、うにゃ〜。」
「…まあ、ケルビナを食べないでねイブリーズ。」
「…おまえにうちの娘はやらんぞ。」
 顔をしかめて言うカールさんを「エヘッ」という目で見上げて、犬はふさふさの手でケルビナをまたいで屈みこみ、 ケルビナをふさふさの毛の中に隠してしまいました。ケルビナは思わず叫びました。
「にゃー!」
「…まったく、お茶目だな、お前は。」
 カールさんは笑って犬をがしがしなでました。

*

「…電話では飼い主本人とは話せなかったんだ。だがなにやら丁寧なじいさんがきちんと応じてくれた。」
「どきどきしますね。…ええと、そこの角を左です。」
 マフィア宅の場所を調べてくれた獣医さんと犬を載せて、カールさんの車は角を曲がってとまりました。
 そこはちょっと古い邸宅ですが、とってもおしゃれな、メキシコっぽい作りでした。
 庭には大きなバナナの葉っぱがわんさわんさと茂っています。
「いくぞ、ほら。」
 一生懸命首輪をひっぱりましたが、犬はくうん、くうん、と足をつっぱって、車から出ようとしません。
「…いやがってますね。」
「…このあいだこの車で美容院につれていったから。」
「あーああ。」
 二人がかりでやっと下ろしました。
 門のインターホンで、そのおじいさんと話すことができました。門はするする開きました。
 お庭には大きな池があって、あひるが泳いでいました。二人の顔をみてがあがあと鳴きました。
 いざ玄関、というところで突然犬はのしっとすわりこんで押しても引いてもびくともしなくなってしまいました。
「…じゃあここにつないでおくか。」
 カールさんが玄関わきの木に綱をつなごうとしているところに、家の中からとても上品なおじいさんがでてきました。
「おお、イブリーズ。間違いありません。この頑固なイヤイヤポーズ。こうなったが最後雨が降っても中には入りません。」
「こんにちは。…電話したラムサスです。こちらは友人で、探すのを手伝ってくれたウヅキです。」
「こんにちは。」
「ようこそおいで下さいました。若がお待ちです。中へどうぞ。」
「…犬はどうしましょうか…。」獣医さんが肩を竦めて尋ねた。
「…うーん、…担いでいこう。」
「…え?!」「なんと?!」
 びっくりする二人を尻目に「ふんっ」と力を込めると、大きな犬を抱き上げてカールさんはとっとと中に入って行きました。
 犬は情けない顔でカールさんの肩の上に担がれて、「くふーん」と鳴きました。…でも大人しくしています。
 白い壁の廊下を突き当たりの十字架に向かってすすみ、そして手前の角をまがると、 ドアのないアーチ型の入り口があって、部屋に続いていました。
 部屋は柱などところどころに生々しい彫刻が施されていて、その幾つかには金メッキが施されていました。
 大きな机には処理中と思しき書類がわんさかつんであり、ラジオからはフォルクローレが流れています。
「若、お客さまですぞ。」
 慇懃な声でおじいさんが言うと、開いていた窓からひょいと金髪の若者が顏を出しました。 王子様みたいなハンサムボーイです。そしてちょっとワイルドな感じでした。 どうやら開いた窓の外はちょっとしたテラスになっていたようです。
「何だ?」
 そう尋ねて二人と顔を合わせて、犬を見たとたん、若様はとびあがりました。
「げっ!?イブリーズ?!帰ってきたのか?!」
「…若。」
 おじいさんがたしなめるように言うと、若様はちょっとイヤそうにおじいさんを見ました。
 カールさんは犬を下におろしました。
「…2つ隣のまちまで迷って来て、しばらくウチにいたんだ。 毛がフェルトじゅうたんのようになっていたので手入れしておいた。」
「ウ−ム、雑巾をとおりこしてじゅうたんか。…そりゃ手間かけたな…。 おれはバルトだ。」
 若様が手を差し出したので、カールさんは握手した。
「ラムサスだ。…こっちは友人のウヅキ。」
「よろしく、ラムサス。それに、ウヅキ。…ふーむ、イブリーズ…あっ。」
 握手ついでに犬を撫でようとして、バルトさんはスッと避けられました。
 …気まずい沈黙がおこってしまいました。
「…あ〜…。ウチのモンに顔が似てたんで面白がって買ってみた犬だが、御覧のとおりおれにさっぱり懐かなくてな〜。 …家出もしょっちゅうで。毛玉はつくし足はモップ雑巾みたいに汚れるし…ううん。」
「…そうか。」
 ブスッとしてカールさんが短く応えました。
 カールさんは、「げっ!?イブリーズ?!帰ってきたのか?!」などとと言ったバルトさんの態度に実は少しむっとしていたのです。そのうえバルトさんが、犬の世話が嫌だという態度をして、それも犬の性質が悪いせいで手間がかかるから、みたいな言い方をしたように聞こえたので、ますますむっとしていたのでした。自分が可愛がっている犬を悪し様に言われたと感じたら、飼い主さんは腹がたつものなのです。でも本当の飼い主さんはバルトさんなのに、良く考えればとても変なじょうきょうでした。バルトさんのほうとしては、イブリーズをこきおろしたつもりなんかなかったかもしれません。
「あ〜…あまり相性がよくないのですかね〜。」
 ひやひやしながら獣医さんが言いました。獣医さんは、カールさんがときどき御機嫌を悪くすると、相手構わずかかって行く咬み犬みたいになることがあるのを、知っています。
 カールさんはこの青年がマフィアだということを忘れているかもしれません。獣医さんは心配でした。
 気まずい雰囲気はなお継続中です。
 イブリーズはカールさんの後ろにすわりこんでいます。
 そのとき遠くから「若〜」という声がして、「御散歩おわりました〜。…そっちいきましたよ〜。」と言った。
「おう、サンキュ。」
 バルトさんがそう言うと、「わんわんっ!」と元気なこえがして、ぴゅーっっと白い影が部屋に飛び込んで来ました。
「おーよちよち、おかえりちゃいでちゅ〜」
「わんわんわんわん!」「わわわんわんわわん!」
 ちいさな白いトイ・プードルが2匹、ぴょーんぴょーんとバルトさんにとびつきました。
「いいこいいこ。…お外は楽しかったでちゅか〜。」
 バルトさんが抱いてあやすと、2匹のプードルは「ハッ、ハッ、」と荒くいきをつきながら、バルトさんの顔を交互にぺろぺろ舐めました。とてもなついています。
「…マルーちゃんマリアちゃん、イブリーズが帰ってきまちたよ〜。はい。」
 バルトさんがプードルをイブリーズのほうへさしだすと、プードルはキバを剥いて猛然と吠えました。
「キャン!キャンキャン!!」「キャン!キャン!」
 するとイブリーズは鼻の上にしわをよせて、一声「うう」と唸りました。
「…久しぶりなんだから仲良くしろよ、お前ら。」困ったようにバルトさんが言いました。
 後ろに立っていたおじいさんが肩をすくめて首を振っています。…もともとこのチビちゃんたちと、イブリーズは上手くいっていなかったようでした。
「…あーうー、ああ、あんたら、手間かけさせて悪かったな。この犬、頑固だし我侭だしイタズラものだし、面倒タイヘンだったろ。 申し訳ない。…後日、礼を届けさせる。…じい、住所きいといてくれ。おれはこの山を何とかしないと。…ふう。」
 バルトさんは首を振って、プードルを抱いたままイブリーズとカールさんたちに背を向けて、机に向かいました。

*

 ケルビナはフテていました。
 犬がいなくなったつめたい寝床に仰向けになって、暗い天井を睨んでいました。
 おとうさんは勝手だ、と思いました。
 わたしの犬をよそへやってしまうなんて。
 わたしの犬なのに。わたしの犬なのに。
 ケルビナはごろりと転がって丸くなりました。
 そして古い毛布をにぎにぎしました。
 しばらくして、カールさんが帰って来ました。
 何か二言三言ミァンさんと言葉をかわしたあと、声が聞こえなくなりました。
 ふん、どうでもいいわ、とケルビナは思いました。
 毛布を突き抜けた爪がばりばりと古新聞をひっかきました。
 それからしばらくしたあと、部屋の戸が開いて、カールさんが入ってきました。
 ケルビナは無視しました。
 カールさんはケルビナの隣にしゃがんで、じっとケルビナを見ていました。
「おとうさんのばか。」
 何度も言った言葉をもう一度だけいいました。
 カールさんは何もいいません。
 ケルビナは犬のにおいのする古い毛布のなかにもそもそもぐりこみました。

*

 一月ほどたって、季節は夏になりました。
 ケルビナはクーラーが嫌いです。せっかくあったかいのにどうしてわざわざ寒くするのかわかりません。
 それから最近なんだか水が臭うような気がして、水が嫌いになりました。
 それからカリカリしないもにょっとした御飯を食べるとイライラしてしまいます。
 …なんだか、嫌いなものがふえてしまいました。
 好きなのは網戸です。網戸に爪をたてて上まで登るのは最高に楽しいことでした。
 …でもある日、イライラして網戸をばりばりにひっかいてしまいました。
「キャー!ケルビナ!!」
 ミァンさんに叱られてしまいました。
 カールさんは最近はセラフィータばっかりなでなでしています。
「ムカつくんじゃウルァ!」
 などとケルビナがうなるので、余計疎遠になってしまうのでした。
 そんなある日の午後、お庭の裏手のあの小さなおうちに入り込んで、ケルビナは「せいしんが こうはいしている」と感じていました。
 このままではいけないと思いましたが、だからといってどうすればいいのかもわかりませんでした。
 外は焼け付くような猛暑ですが、猫には「あったかい」程度です。
 ケルビナは小屋のなかでうだうだしていました。
 いつからこんなふうになってしまったのでしょう。なにが原因なのでしょう。
 「おとうさんが悪いんだ」と、ケルビナは思いました。
 けれども、もうケルビナの記憶からは、おっきなアフガンハウンドの姿はおぼろに消えつつありました。
 ただとても痛い気持ちと恨みだけが残っていました。
 突然小屋の中がくらーくなりました。
 ケルビナは首を上げて入り口を見ました。
 すると、ものすごく使い古したぼろぼろのモップみたいなものが入り口をふさいでいました。
 これはなんだろう、とケルビナは思いました。
 なんだかよくしっているにおいがします。
 ぱふぱふとさわってみると、泥でごわごわっとした感触がしました。
「これは犬というものだわ。」
 ケルビナは思い出し、威張ってそう言いました。
 でもそれは入り口をふさいだまま、動きません。
「うにゃ〜、なによ〜なによ〜、うにゃ〜うにゃ〜うにゃ〜」
 ケルビナは爪をたてましたが、あまりにごわごわになっている毛はまったく爪を通しません。
 少しうしろに下がってとびかかりましたが、古モップはびくともしません。
 もういっかい下がって、また飛びかかったその瞬間。
 入り口はぱかっと空白になって、ケルビナはころんと外にころがりました。
 お庭の日陰で、暑さに長い舌を垂らして、その汚れた犬は「ハッ、ハッ、」と口で息をしていました。
「あっ」
と、ケルビナは思いました。
「うにゃん!わたしの犬!わたしの犬!」
 犬はなんだか、嬉しそうな顔に見えました。

*

「…おまえ、戻って…いやはやこれはまた…いつから放浪してるんだ?」
 冷房の下を陣取ってうごかないイブリーズのごわごわの毛皮を嬉しそうに撫でて、カールさんは言いました。
 ミァンさんは少し心配そうにしています。
 カールさんは御飯をあとまわしにして、すぐさまイブリーズを引きずってお風呂に入っていきました。
 アウーン、キャイーン、という断末魔の叫びが少しのあいだ響きました。
 しばらくしてお風呂から出て来たイブリーズは、濡れてぺったりと小さくなっていました。
 ミァンさんがタオル地のシーツを持って来て、もしゃもしゃとふいてあげます。
 服を着てカールさんがやってきました。よっぽど機嫌がいいのか、ものすごく派手なアロハシャツを着ていました。
「おれがやる。…ビールもってきてくれ。」
 カールさんはそういいながらシーツをうけとって、はさみとクシを手に「絨毯」を手入れしはじめました。
 カールさんが鼻歌を歌っているのを聞き付けて、トロネちゃんとセラフィータがケージの中で騒いでいます。
 ミァンさんが缶ビールを2つ持ってきて、二人は乾杯しました。
「こりゃあ、だいぶかりこまないと駄目だな。」
「…裁ち鋏もってくるわ。」
「ああ。」
 そして二人で、犬のごわごわの毛をたくさんかりとりました。
 犬は「こまったなあ」という顔で、ケルビナを見ました。
 ケルビナは「がまん。」と犬に言いました。

*

「暑いからちょうどいいわ。寒くなるまでにはのびるでしょ。きっと。」
「すっきりしたな。」
 すっきりしてきれいにふわふわになった犬の背中によじのぼって、ケルビナは「うにゃん」とへばりついています。
 なんだか足りなかったものが満たされて、ケルビナはとても優しい気持ちになりました。
 カールさんはミァンさんと御飯を食べています。
「…あまり向こうの飼い主に懐いていないらしいんだ。」
「…そうだったの。」
「…ちいさい犬を他に2匹飼っていて…。その子たちとも仲が悪くて…。」
「…うちで飼いたいの?カール。…駄目よ。」
「家出もしょっちゅうだと言っていたんだ。」
「…でも。」
 カールさんは犬をなでなでしました。
「…他の犬はマリアとかマルーとかいう女の子らしい名前なのに、こいつだけ悪魔の名前なんて、酷いじゃないか。…同じ女の子なのに。」
「…」
 ミァンさんは心配そうにしています。
「…マフィアといっても、なんだか単に一族の若い当主といった感じのかわいい坊やだったよ。 会社か店でも経営しているらしいし、 おつきの爺やかなんかいたりするかんじだ。きちんとした子だし、心配ないさ。…交渉してみるよ。」
 犬はカールさんにずりずりと近寄って、カールさんのお膝に頭を載せました。 背中にへばりついていたケルビナはずるずるっと床におちました。ケルビナは前に回って、 犬の前足の間にもぐりこみました。
「…ミァン。…手入れと散歩は俺がするから。」
 ミァンさんは目を逸らしました。
「そんなことはどっちでもいいけど… でも、自分に懐かない犬が他人に懐いたのでは、飼い主の気持ちも穏やかでないかもしれないわ。」
「厄介払いできて喜ぶさ。…とりあえず、電話して様子をうかがってみよう。」
 カールさんはすっかり決めてしまったみたいです。
 ケルビナは冷房を犬に遮ってもらって、ぬくぬく幸せでした。

*

 次の日は土曜日でした。ふらりと獣医のウヅキさんがやってきました。
 お仕事はお休みで、カールさんは犬の毛の手入れをしていました。
 犬はときどき痛いのか「クゥ〜ン」と微かな声で嘆いていましたが、カールさんに遠慮しているらしく、じっとしています。
 ときどきぴくぴくする尻尾を、ケルビナがじーっとみています。
「おや、カール、戻って来ちゃったんですか、犬。…これはまた、夏らしい姿になって…。」
「ああ、ウヅキ。きのうひょっこり戻って来て庭に座ってたらしい。…なんかあったのか?」
「いや、暇なので。」
「うーん?…この子、うちで飼おうかと思ってるんだ。」
「…うーん。」
「返してもどうせまた戻って来るだろ。…あっちのうちはあの調子だし。」
「…まあねー…。なんか上手くいってませんでしたよね〜…。 あ、ケルビナちゃん。こんにちは〜。注射しますよ〜。」
「…からかうな。ひっかかれるぞ。最近猛々しいから。」
「に〜。」
 そんな言葉などどこ吹く風。ケルビナは御機嫌です。
「に〜だって。かわいい。」
「うむ、犬がいると機嫌がいいんだ。」
「…しかし随分刈り込みましたねえ。アフガンとは思えないほどすっきりと…。」
「しばらく放浪してたらしい。泥でガビガビにかたまって、毛玉とかいうレベルじゃなかった。 一応洗ってみたが、無駄だった。」
「…まあ、夏だしね。」
「そうだ、今電話してみよう。」
 カールさんはそう言うと、犬を放してやって、立ち上がりました。
 ウヅキ先生は「は?」という顔をしています。
 犬とケルビナがカールさんを見ると、カールさんは電話のところへいったみたいです。
 電話が始りました。最初の挨拶をきいて、ウヅキ先生は、電話の相手が犬の飼い主だと気がつきました。
 そこで急いでカールさんのそばに行きました。ケンカになりそうになったら、止めようと思ったのです。
 ケルビナは邪魔者共がいなくなったので犬の顔のそばへいきました。
 犬は電話のほうを見ていましたが、ケルビナが行くと、ぺたっと伏せました。 そしてケルビナが頭をこすりつけてごろごろ言うと、犬は笑ったような顔で目をつむりました。
 電話はそんなに長くなりませんでした。
「…どうでした、カール。」
「…一人来るそうだ。」
「え?…まずくないです?…それ。…なんとなく。」
 二人は顔を見合わせて、黙り込みました。
 少しして、カールさんは向こうを向いていいました。
「ミァン、ちょっと頼みがあるんだ。」
 するとキッチンからミァンさんが出て来ました。
「なあに。」
「急で悪いんだが…ウヅキの奥方誘って、今夜の買い出しに行ってきてくれないか? 天気もいいし、ミドリちゃんもいっしょに河原へ行ってバーベキューでもしよう。」
「いいけど…随分突然ね?」
「あ、じゃわたしユイに電話しておきますね。ちょっと電話お借りします。ユイの車で行くといいですよ。」
 ミァンさんの安全確保と察したウヅキ先生は、自宅に電話して、自分の奥さんに同じことをいいました。
 ミァンさんが訝しそうに出かけるところを捕まえて、カールさんは紙幣を多めに預けました。
「…二人で亭主の悪口でも言い合ってこい。…俺はすこしヤツとサシで話がある。…すまん。」
 カールさんがそう言ってお茶代を渡すと、ミァンさんは少し笑って、カールさんの頬にキスしました。
「…いってきます。」
「帰りは暗くなってからでいいからな。」
「わかったわ。」
 ミァンさんは出かけてゆきました。
 台所で茹で上がっていた枝豆をお皿に開けて、食べながら二人は待ちました。

*

 しばらくして、カールさんのおうちの前に、大きな車がとまりました。
 ワックスでぴかぴかの、黒い車です。
 車の音に、カールさんは立ち上がります。ウヅキ先生は座ったまま外を見ました。
 残念ですが、居間から門の前を見ることはできません。
「…きましたね。」
「…」
 間もなくチャイムが鳴りました。
 カールさんと一緒に、ウヅキ先生も玄関へ行きました。
 ドアを開けると、白っぽい銀髪に黒っぽい肌の…なんだかイブリーズみたいな色合わせの人物が立っていました。 とても綺麗な青い目をしています。
「…やあ、カール。久しぶり。」
 そう言われてカールさんはびっくりです。あまりに驚いて、声がでません。
 カールさんの肩越しに覗いて、ウヅキ先生も驚きました。
「ああ?!シグルド・ハ−コートじゃありませんか。」
「やあ、おまえまでここにいたのか。…お婿さんやってるんだって?リクドウ。うちの近所の獣医さんにきいたよ。」
「はい、今はウヅキです。」
 二人はカールさんをそっちのけで懐かしそうに握手しました。
「どうしたんですか、突然。…ビジネススクール入ってすぐやめたっきり行方不明だったのに。」
「…うん、あのころ探してた父方の家族が見つかってさ、見つけた途端いきなりお家の一大事で…かけつけて活躍してた。 2年おくれでもう一度別のビジネススクール入って、そのあとロースクールに行ってたんだ。」
「今は?」
「家族と一緒だよ。…このあいだは残念だったな、二人でうちに犬を届けに来てくれたんだって? ちょうどすれ違ってしまって。」
「え…」
「え?」
 カールさんとウヅキ先生はまたびっくりです。
「じゃあ…あの坊やは…。」
「ああ、亡くなった父の正妻の息子だ。レストランを12件、ホテルを5件、カジノを2件持たせて身動きとれなくしてある。 ものすごいやんちゃ坊主でな。ほっとくと退屈のあまり銀行強盗とかやりかねないから。」
「ああ、そうだったんですね!…いやあ、あなたがどこへいって何をしているのかと、いつも気になっていましたよ。 カールだって…以前は犬にあなたの名前つけたりして…ね?カール。」
 ハ−コートさんはどうやら、カールさんたちと学校で友達だったようです。
 でもカールさんはびっくりした顔のまま、固まっていました。
 ウヅキ先生は再びハ−コートさんに向き直ってにっこりしました。
「久しぶりに会えて嬉しいです。…ええと、それで、あのアフガンはどうしましょう? …まあ入って下さい。私のうちじゃないけど。ね、カール。」
 ハ−コートさんはおうちに入ることにしました。呆然としているカールさんにちょっときづかわしげな目線を送りましたが、 カールさんはそれにも気付いていないみたいです。なかに入ると、犬は相変わらずケルビナにゴロゴロされて幸せに浸っていました。
「ああ、いたいた。久しぶりだな、イブリーズ。おやおや夏らしい髪型になって…。私もこのくらいにしようかな…。」
 ハ−コートさんが触るとちょっと目をあけましたが、またそのまま閉じてしまいました。
「枝豆が少し残ってますよ。」
 ウヅキ先生がよぶと、ハ−コートさんはそちらへ歩いていきました。その背中を、犬は薄目を開けてチラリと見ました。
「…まさに『残ってる』という風情だな…。」
「じゃ食べなくていいですよ。」
「いや、食う。」
 ハ−コートさんは殻をばらばらと皿から弾いて、残りの枝豆を食べました。あんまり気にしてないみたいです。きっと昔は一包のポテトチップスと一本の缶コーラを三人で回して飲み食いしたような仲なのでしょう。
「カール、カール生きてますか?」
 ウヅキ先生がゆさゆさすると、カールさんはびくっ、としました。
「えっ、ああ。」
「よほどびっくりしたんですね。無理もない。私でもおどろいたもの、カールなら尚更ですよ。 …でも、犬の話をしないと。」
「ああ、うん。」
 カールさんは神妙な顔で、ウヅキ先生にうなづきました。それからハ−コートさんから微妙に目をそらしたまま、こう言いました。
「…この犬、そっちの家ではぜんぜん可愛がられていないようだし、 返したのに戻ってきてしまったのだから、自分の家がよほど嫌いなのだろうと思う。 可哀想だからうちで飼ってやりたい。…そっちはかまわないだろ、別に。じゃまにしてるんだから。」
 そのあまりに真実を赤裸々に語った台詞に、ウヅキ先生はびっくりしました。
「カ…カール、そんな言い方はいけませんよ ! いくらなんだって。」
 ハ−コートさんもショックを受けたみたいでした。
「え…いや、まあ…たしかに、若はイブリーズに嫌われているし…他の2頭ともアレだが…その… わたしやメイソン氏はこの子が結構好きで…あの…」
 しどろもどろです。
「そうか?でもこの子のほうはおまえのことなぞどうでもよさそうだな。」
「カール ! 」
 またぼんやりした顔でいきなり酷いことを言ったカールさんを、ウヅキ先生があわてて止めます。
 ハ−コートさんはかなりうちのめされたみたいでした。
「カール、シグルドに会えて嬉しいくせにどうしてそういう意地悪するんですか?」
「…犬なんかいらないだろ、おまえは。結構気に入ってるだと?その程度でひきとめるつもりか? 犬にとって飼い主が誰かは、人生を左右する重大な問題だ。結構、なんて理由で飼われちゃ、迷惑この上ないんだよ。」
 カールさんはたたみかけるようにそう言いました。
 そしてそれっきりだまってしまいました。
 言葉のわりに、ぼんやりした様子だったので、残り二人は奇妙に感じて、やっぱり黙ってしまいました。
 そのとき、ケルビナは「うにゃん」とひっくりかえって久しぶりに人間のほうを見ました。
 すると見たことない人がいたので、ちょっと興味を覚えました。
 体勢を立て直して起き上がると、ケルビナはハ−コートさんに向かって歩いて行きました。
 犬は「ああん」とでも言いそうな悲しそうな目でケルビナを見ました。
 ケルビナは真直ぐ歩いて行って、とりあえずまっすぐハ−コートさんの足の上を横切ってみました。
「…ふまれた。」
 ハ−コートさんは気の毒にショック続きです。
 ケルはカールさんの膝にひょいと飛び乗って、にゃ〜、と尋ねました。
「お父さん、あれだれ? あれだれ?」
 カールさんは黙ってケルの顔をみています。
 ケルは首をかしげました。
「にゃにしに来たのかにゃ〜?」
 カールさんはケルの頭をなでなでしました。
「うにゃんv うにゃんv」
 すると冷房の真下で伏せていた犬がすっくと立ち上がって、カールさんのところへトコトコやって来ました。
 そしてカールさんを見上げてはたはたと尻尾をふりました。
「ケルをちょうだい」と言っているみたいでした。
 カールさんはケルを犬に返してあげました。
「ああんやーんお父さんまたごまかすー。」
 うにゃーうにゃー言うケルを慰めるように、犬がケルの頭を舐めました。
 カールさんは言いました。
「…すまん。昔飼ってた犬に逃げられてな。…あいつはさぞかしここの家が嫌いだったんだろう…とか、 俺が嫌いだったんだろう、とか、 いつも思っているので…つい。」
 ウヅキ先生は眉をひそめました。
「…卑屈だなあ。たまたま首輪が弛んでただけでしょ。ああいうチビ助は単に活動的なんですよ。なついてたじゃないですか。」
「…イブリーズなんて名前つけてるくせに、連れてかえりたいのか?」
 カールさんは静かに言いました。
「…相変わらず、キツイなあ、カールは…。」
 ハ−コートさんは溜息をつきました。
「…メイソン氏に言われてきたんだ。若はイブリーズをすでにもてあましているし、世話をするのも負担に感じているみたいだから、 もし可愛がられているようすなら、イブリーズの幸せも考えてやるようにと…。でもそんなふうに言われると…。」
「何でイブリーズなんて名前つけたんだ。」
「強そうだろ。ちゃんと調教も受けさせたし、本当は猟犬だって勤まる犬なんだ。ケルベロスじゃありきたりだからって。若が。」
「…雌だ。」
「たいして関係ないさ。犬だし。」
「…」
 カールさんの眉がぴくっ、となったのを、ハ−コートさんは見てしまいました。
「…えーと」
 ウヅキ先生が言いました。
「あ〜、カールの言い方は、確かにまずかったとおもうんですよ、シグルド。あれは確かに、酷過ぎです。 シグルドだってあんなふうに言われたら、傷付きますよね。 シグルドはシグルドなりにかわいがっていたんだし。」
 ハ−コートさんはうなづきました。ウヅキ先生もうなづきました。
「それはそうだろうとは思うんですが…そのう、この子をあの家に置いておくのは、弟さんのためにも、 犬のためにも…ええと、あまり前向きでない…かもしれないですね。」
 ハ−コートさんはそれを聞いてまだずどんと落ち込んだみたいです。…なんだかかわいそう。ウヅキ先生も困って頭をかいています。でもハ−コートさんはうなづきました。
「…そうだな…。」
「…どうでしょうね、あまりこう、二人とも犬の帰属にこだわるのはやめて、 しばらく、寄宿学校にでも入れるつもりでカールに預けてみては…。 カールもしばらく預かる、という形ではどうですか? たまに暇のあるときに、犬の顔見に人間が会うのももいいんじゃないかな…なんて。」
「…」
 カールさんは黙ったまんまです。
 ハ−コートさんはそんなカールさんを見てぼそっと言いました。
「…カールは、そもそも俺に会うのは金輪際ゴメンだって顔だけどな。」
「…あなたが誰にも事情をいわないで失踪するからですよ。 そっくりなこと飼ってた犬にまでやられて、カールは一時期再起不能だったんですから。 …今度は逃げられたほうじゃなくて逃げ込まれたほう。混乱しているんですよ。」
 ひそひそとヒュウガが言うと、シグルドは溜息をついた。
「…連絡しなかったのは悪かったよ…。でも、マフィアの片棒担ぎに行くなんて聞いたら、 おまえたち絶対反対しただろう? …俺だって迷った末決めたんだ、おまえたちに反対されたら決心が鈍るよ。」
 ウヅキ先生もカールさんと一緒に黙りました。 …そのとおり。でも一言くらい。言うのが無理なら手紙だって。…そんな気持ちが心の中を行き交っていました。
 でもハ−コートさんの弁明を聞いて、カールさんは少しは話す気になったみたいです。
「…金輪際ゴメンだなんてことはない。だが、…少し時間が欲しい。今はまともに話せる気がしない。」
「…そんなところですね。」
 ウヅキ先生はうなづきました。
「…今度会う時まで、犬を預からせてくれ。」
 カールさんはぼそっといいました。
 かなり頑張って譲歩した様子でした。
 ハ−コートさんは仕方なくうなづきました。あなたのせいですよと言われると、返す言葉はなかったのです。 やっぱり少しは、黙っていなくなったことを、申し訳なく思っていましたから。
 犬の待遇はこうして決まりました。
 当分、カールさんが御機嫌をなおすまで、犬はカールさんのおうちの食客です。…そしてなしくずしにカールさんの うちの子になることでしょう。
 ケルビナはニャフ−!と犬の喉元に襲いかかりました。犬はごてっと横になって「まいりました〜」と笑いました。 犬の首にまふっとしがみついたまま、ケルはとっても幸せでした。

*

「ウフフ、まあ、そうなの?」
「そうなのよ。」
「まあ、でもあの二人は少しヤナ感じだわ。そう思ったことはない?」
「ウフフフフ、ちょっとわかるわ。カールも前、犬にいなくなった友達の名前つけてたことがあってね…。友情は美しいけれど、あんまり仲が良すぎるのはどうかしら。」
「…あ、知ってるわ、その犬、にげちゃったんでしょう?」
「…ええ。少し首輪を緩めておいたの。」
「…え?」
「あ、違う、首輪が緩んでいたの。…それでするっと抜け出していっちゃって…。 わたしに秘密にしたいことが多少あるのは仕方がないと思うけど。やっぱり ちょっと嫌ね、こんなふうに仲間はずれにされておっぱらわれたりすると…。」
「そうですね、それでいて男の子同士でひそひそやってるんですから…。ヤナ感じ。」
「…ま、いいわ。あまりお家に閉じ込めてばかりおくと、少し凶暴になるから。」
 ウヅキ先生の奥さんは車を止めました。
「さ〜、男の子同士の密談はおわったかしら。」
「日も暮れたし、終わってなくてもタイムリミットだわ。」
 二人は車をおります。
「…ミァンさんはどうしてカールさんと結婚したんですか?」
「…前髪のさきっちょがくるんとカールしててかわいいわあ、と思っていたら、 名前がカールなんだもの。ツボに入ったわ。それで決めたの。ちょっと大きくて扱いが大変かなと思ったけれど、 どうしてもあの人がいいわって思ったの。」
「…」
 まるで耳がカールした子猫を選んで買っていくペットショップのお客みたいな台詞だわあ、と、 ウヅキ先生の奥さんは思いました。
  ウヅキ先生の娘は友達と約束が合って河原のホームパーティーには来られませんでしたが、 かわりにイブリーズに似た人間のお客さんが一人加わって、 その日のバーベキューはなかなか楽しくいただくことができました。 …幸か不幸か、奥様たちはそのお客さんの名前を聞く機会がありませんでした。

*

 秋が過ぎて季節が冬になってもやっぱりアフガンハウンドはカールさんのおうちにいました。
 でも…。
「ドミニア ! お前足の毛に枯草がっ… ! おいっ、まてっ ! ! 」
 カールさんの手を「わん ! 」と陽気にかわして、犬はお部屋に駆け込みます。
 椅子の後ろに逃げ込んで、「ここまでおいで〜わんわんわん♪」と鳴きます。
「鬼ごっこしてるんじゃない ! でてこいっ ! 」
 アウン、キャインvと甘えた声を出してテーブルに飛び乗ります。
「キャー ! ドミニア ! 」
 ミァンさんが悲鳴をあげます。
「…あの昔の大人しさは何だったんだ…?ひょっとしてウチで気に入ってもらえるように 演技していたのか…?…車に飛び出して来たのもひょっとして…」
「わんわんっ♪」
 ふざけている証拠に尻尾はちぎれそうに元気です。…おうちに馴染んで、肩から力が抜けたのでしょう。決してカールさんが疑ったような理由では…ニヤリ。
 戸棚の下からごろんと猫がでてきました。
「にゃ〜。」
 めんどくさそうに猫が一声鳴くと、犬はテーブルを下りて、猫に近寄りました。
 二匹は相変わらず、仲良しです。お互いに臭いを確かめて、ケルビナは「わたしの犬〜」と犬の足に顔をこすりつけます。
「やれやれ…おまえが面倒みてくれ、ケルビナ。」
「にゃ〜、毛並みとお散歩はお父さんでしょ〜」
 ケルビナが言うと、犬はケルビナに襲いかかって捕まえて、勢いよく舐め回しました。
「…ケルビナって、なにか喋ってると思わないか?」
 ミァンさんにカールさんが言うと、ミァンさんは澄まして言いました。
「きっとドミニアの面倒くらいお父さんがきちんとみて頂戴と言っているのよ。」
「…」
 そうそう、イブリーズはドミニア、という天使ふうの名前をカールさんとミァンさんからもらいました。
 ウヅキ先生もいい名前ですね、といつも言ってくれます。
 お庭の小さなおうちは、ミァンさんが物置きに仕舞ってしまいました。
 いつかカールさんもお友達と仲直りできるといいですね。
 おしまい。



2001/5/25

12345HIT、D51小竜様にささげます。有難うございましたv

ながくなっちってごめんなさい...汗。

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