陛下という尊称のある人物は、ヒュウガの直属の上司だ。長いこと、この星の統治者をしている。大変な高齢で、いつもはたいてい、移動型の便利な玉座にすわったきりだ。それ以外のときはベッドに寝ている。ヒュウガが側近に抜擢されたのには、医者の免状を持っていたから、という理由もあった。
臓器はほとんど人工の部品になっているらしい。胸の近くではいつも人工肺が膨らんだり縮んだりしている。ナノマシンは再生の道具としては使うらしいが、自分の体でナノマシンそのものにしている部分というのはあまりないのだとか。
ときどき話相手にヒュウガを呼ぶ。
ヒュウガが何をしているか聞きたがる。仕事のこと、生活のこと、恋人のこと…。
「あまり平均的じゃないですよ、わたし。ラムズだし。ご参考にはならないのでは…」
ときどきヒュウガが言うと、彼は笑う。
ほかの話し相手はもっと参考にならないからな、と。…たまには人間の話が聞きたいのだ、と。それに気にすることはない、ラムズも所詮私の末裔なのだから、と。確かにおっしゃるとおりだ。この人の回りの者の中では、ヒュウガはそれでもかろうじて「人間」の部類に入っていると言っていい。ほかは人間外だ。法院の老人たちやロボットの看護マシン…。
ヒュウガはこの上司に時々不思議な感触を覚える。感触といっても別に触っているわけではないのだが。
古い知り合いに似ているような気がする。
声も。厳然と他人を拒んでいるのに、実は人恋しいところも…。
人間のいないおもちゃの国の寂しい王様…そんな感じがした。ヒュウガはこの老人が嫌いではなかった。…そもそもヒュウガは爺婆好きなのだ。祖父母に可愛がられてそだったせいもある。
ある日、ちょっとしたごたごたがあって、夜中にヒュウガは呼び出された。呼び出したのは法院の老人たちで、ヒュウガが駆け付けるといつものあの叱りつけるような調子で口々にヒュウガに何か言った。苦労して聞き分けると、どうやらこういうことらしかった。
あのカレルレンめが勝手にどこそこの回路を切りおった。すぐになおすように言え。
…どうやら察するに、法院はカレルレンの機嫌をそこねたらしかった。しかも、多分法院側が悪いのだ。というのは、カレルレンが悪い場合は、この老人たちはヒュウガの上司を利用してなんとかさせようとするのが常なので。
一体何をやらかしたのかいささか興味があったが、聞いて答えるわけもない。ヒュウガはとりあえず了承して、その場を辞した。なんだかんだ言っても回路は法院の老人たちにとって神経のようなものだ。復旧してやらなくては可哀想だった。
事情はカレルレンに聞こうと思い、ラボに連絡を入れた。摂政のカレルレンはかなり夜更かしなほうだ。こんな時間でも起きている可能性は高かった。案の定、カレルレンは例の淡々とした声で通信に応じた。うかがってよろしいですかというと、ああいいよ、と言う。ヒュウガはカレルレンのラボへ出向いた。
ラボの扉から中に一歩入るなり、カレルレンは振り向きもせずに試験管を選り分けながら言った。
「そこの紫外線で手を消毒したら、手袋はめて22番の試験管の中身を捨ててくれ。」
…しまった、とヒュウガは思ったがあとのまつりだった。
カレルレンのソラリス随一のレベルのラボはヒュウガにはうらやましい設備だった。…まあ好みからいうと、もう少しこぢんまりして雑然とした感じのラボのほうがヒュウガは好きだったが、それにしてもまったく世界一のラボだと言ってまず間違いはなかった。彼は本職は科学者で、ヒュウガの上司の延命も彼が手掛けている。実験がはじまったが最後、彼はラボにこもったきり外には出ない。
「…試験管50番から200番までの色データを確認してくれないか。合致してたらそれも捨ててくれ。…いそいでくれ。早くしないと腐る。腐るとモーレツに匂う。」
ヒュウガは慌てて指示に従った。一体何の試薬やら。
「あれっ?!100番から125番まで明らかに全然ちがっていますけど。」
「…ああ。スキャナがイカレてるのかミスが多い。」
「反射面ですか?…なおしますか?」
「いや、腐るから、あとでいい。今はとにかく、目でチェックしてくれ。多少はかまわない、赤が青とかになっていなければ…。」
「…あ。本当だ。におってきた…」
「…来たか。じゃあマスクをしたまえ。猛烈に来るから。」
カレルレンは使い捨てのマスクが入ってる箱をなげてよこした。ヒュウガはマスクをつけて、色のデータを手作業で修正した。…腐敗臭が物凄い。カレルレンもげほげほ咳き込み、涙ぐんでついにマスクをつけた。それでもあまり変わらない。ラボの換気扇がフル稼働する。
やっと作業を終えて試験管の中身をすべて処分すると、カレルレンがヒュウガの袖をひっぱった。外に出ようということらしい。ヒュウガも賛成だった。2人はラボを出た。
「…閣下、なにかコーヒーでも?」
「そうだな。…何か飲めるところへ行こう。」
カレルレンは自分の執務室のとなりにある詰所にヒュウガを連れていった。
部屋の隅には小さなバーがある。まだ仕事がのこっているせいか、カレルレンはソフトドリンクを選んで、ヒュウガにも持って来てくれた。
「…いいところへ来てくれた。おかげで助かったよ。」
台詞のわりに冷たい声で言い、ヒュウガに飲み物をわたした。ヒュウガは受け取った。
「…いただきます。…なんの実験なんですか。」
「トップシークレットだ。」
「…そうですか。」
ヒュウガは諦めた。
「…ところで、法院のご老方がたが…なにかやらかしませんでしたか。」
そうたずねると、カレルレンはふんとハナで笑った。
「それがなにか?」
「…それで真夜中に叩き起こされて、ここにいるのです。」
ヒュウガが眉毛をハの字にして言うと、カレルレンは不機嫌そうに眉をひそめた。
「君には関係ないことだ。」
「…当事者って必ずそう言いますよね。」
ぼそっとヒュウガが言うと、カレルレンは不機嫌そうにヒュウガの顏をじっとみた。
…なかなか迫力がある。
「君が巻き込まれたことについては気の毒に思うが、それを私が言われる筋合いはない。」
とりつくしまもない。…だがこの人物はきちんと話せばそれなりに理解を示してくれるのが常だ。ヒュウガは粘った。
「じゃああのご老方たちに申し上げて、わかってもらえと?」
「…いずれにしろ私の知ったことではない。」
ヒュウガはさらに粘った。
「…何されたんですか。」
カレルレンはしぶしぶ応えた。
「…実験農場をつぶされた。」
「…地上の?」
「一番いい割合に育っていた農場だったものを…。教会役員に反逆者がでたとかで、私に無断で根こそぎ討伐した。」
農場、というのは、つまりこの場合「まち」ぐらいに思っておくとよい。
「…なるほど。」
「教会なんぞソラリス内部の事情だ。わたしの実験動物になんの関係がある。」
ヒュウガは複雑だった。カレルレンは法院にくらべれば、地上のラムズにいくばくかの愛情をもっていると言っていい。だがその愛情は、…科学者の、ある意味無邪気なそれだ。命あるもの同士の間にある他の生命への畏敬とか、そういった質のものでは…どうも、ない、らしい。
「…それで、どのあたりの回路をやったのですか。」
「地上統括用の人工衛星から入ってくるデータを全部遮断した。」
「…そうですか。じゃあ、目にガムテープを貼ったみたいなものか。」
…妥当、といえば妥当な処置だ。もちろん、カレルレンは良識ある役人なのだ。ソラリスでは珍しいほどに。
しかし…。
ヒュウガはしばらく黙って考えた。
カレルレンのほうが、地上のラムズにとっては、法院より有り難い係官ともいえる。
だが、…カレルレン一人に任せておくのは正直言っておそろしい。牽制しあっててもらわないと…。
「…ご老方がたが、とってもうるさいんです。…1週間くらいでつないであげてもいいですか。」
ヒュウガの沈黙をなんと理解したのか。
カレルレンは素っ気無く言った。
「好きにしたまえ。」
ヒュウガはほっとした。
ほっとしたところへ、カレルレンが言った。
「…ところでリクドウ卿。君の安眠に協力してあげる代わりに、やってもらいたいことがある。」
ドキッ、とした。
「…なんでしょう。」
「…さっきカラにした試験管に次を入れるんだが。その入れるブツを、ちょっと煮込んでくれまいか。」
…陛下、私が死んだら悲しんでくださいますか…そんな一言が、ヒュウガの脳裏をよぎった。
…悲しむわけがないと分かってはいたのだが。
その苦行を終えて、法院をなおして、やっと「陛下」のところへ戻れたのはかっきり一週間後だった。
ヒュウガがお部屋へ行くと、陛下はお昼寝中だった。その滅多に見られない仮面の下の顏は、老人のそれではあったが、やはり旧友に少し似ている。
彼は人類始って以来の壮大な記憶が保存された外部記憶の端子を玉座に集めている。座っているときはその端子で体と椅子は繋がっている。
椅子をおりると、彼は外部記憶と切り離される。…人類最初の罪や、罰や…利害の衝突や、取り引きや、裏切りや、…それからも延々と繰り替えされて来た長い長い苦しみと悲しみから。
その寝顔は、静かだ。
しばらく見ていると、気配に気がついて薄く目を開けた。ヒュウガが会釈すると、声をかけてくれた。
「ああ…どこへ仕事に行っていたのだったかな?」
彼は半分眠ったような顔のままそう尋ねた。
「…ちょっと護民官閣下の実験にかり出されてました。」
「…そうか。御苦労。…あとでゆっくり聞かせておくれ。」
彼はそういって再びまどろみに戻っていった。
こういうときに会ったことを、この老人は忘れていることが多い。
ヒュウガなど、この老人の長い記憶の世界のなかでは、一瞬の瞬きのようなものだ。それはこの人だけでなく、カレルレンや法院の老人たちにしても、同じことだった。
…おもちゃの国で寂しいのはこの人だけではない。
ヒュウガは老人の布団を少しなおしてやり、それから静かに部屋を出た。
奴も1000年くらい生きたら、ああいうふうに眠れるようになるのかもしれない…。ヒュウガはなんとなく旧友の顏を思い出しつつ、少し苦笑した。奴だけでなく、自分も。
…まだまだ、ヒュウガたちは、そのただなかにある。
16161の激ニアで、絹さんにささげます。大変遅くなってごめんなさい。
リクはカレルものということでしたが、ちょっと陛下モエしてしまいました...汗。スマン...汗。
図書室へ。/02/05/20