5月病


 第三層のまちの一角に、労働者のためのパブリックスペースがある。 アルコールを含めたドリンクや、簡単なスナック類を提供する安い店だが、意外なことに ソラリス政府の直営だった。しかもことさらに表通りに設置されている。 …健全な店、であるよう、管理されているのだった。
 それが大人たちの息抜きの場所として真っ当に機能していたかどうかは別とて、 日中は家事労働者や子供達も気軽に利用できる場所にはなりえていた。 14才まではアルコールは禁止だったが、ソフトドリンクもあったし、 子供の小遣いでもそれなりに食べられるお菓子の類いもあった。
 店の管理人は…つまり国家公務員なわけだが…頑固で厳しいが話のわかる親父で、 子供たちに頼りにされていた。子供たちが「おやじ」といったら、それは自分の父親や 自分の管理担当官のことではなく、このパブリックスペースのマスターのことだった。
 ユーゲントに入って1か月めくらいの頃、ヒュウガは突然この「おやじ」に会いたくなったことがある。
 そのころ、部屋ではシグルドがドライブのフラッシュバックで大暴れしたり、 2層出身の王子様とはコミュニケーションがなりたたなくて毎日怒鳴りあいになったり、 …日々の日常に疲れ気味だった。
 その日授業が終わってすぐに、その足で第三層まで下りていった。
 ユーゲントの制服でいくのもどうかと思ったので、 もらったばかりの「初月給」を使って道端で古着を買い、物かげで着替えた。
 我ながら「変な事やってるな…」という気がしたが、そのかなり妖し気な黒い古着に着替えると、 なにか不思議と気分が落ち着いた。
 機械油の匂いがするまちを工場のほうへ歩いていくと、パプはある。
 ここを離れたのはほんの一月前のことだ。勿論、以前と変わったところはない。
 だがなぜか、ひどく久しぶりに来たような心地がした。
 …追い出されるように出た町だ、名残惜しい気などしなかったのに。
 パブのドアをあけて中にはいると、すでに授業の終わっている子供達が、ポテトチップスや 色鮮やかなジュースを片手に、賑やかに盛り上がっていた。
 …その光景はとても懐かしい。昔自分にも確かにあったもので、今は永久に失われたもの …。
 子供達にぼんやり目をくれながら、カウンターに近寄った。 なんとなく、温かいものが飲みたい気がした。 第三層は工場や植物栽培所が多く、気温はむしろ高め。 昔ここにたまっていたころは、温かいものを飲む奴の気がしれないと思っていたものだが。
「…あられと緑茶。」
 ぼんやりとそう注文してから、カウンターの中にいるはずの人物に視線をうつし、 ヒュウガは愕然とした。
「あられと緑茶ね。」
 そう確認して、カードリーダーを差し出すマスターが、あの「おやじ」ではなかった。
「あれ…」
 ヒュウガは小声で言った。
 見知らぬマスターは冷凍庫から氷った練り物を出して、熱い油のなかにざっと入れる。
 揚げ物の激しい音がさほど広くない店の中に満ちて、子供達の賑わいをかき消した。
 …公務員なので、配置転換、ということも勿論ある。
 ヒュウガは頭ではすぐにそう考えたが、それをどうやって受け止めたらいいのかわからなかった。
 少しして、あげたての菓子と緑色のお茶が、小さな正方形の黒いお盆の上に並んで、ヒュウガに差し出された。
 ヒュウガは初めて気がついたように、カードリーダーにカードを通した。
 マスターはそのカードにちらっと目をやったが、特に何も言って来なかった。
 ヒュウガは新しいマスターを見た。
 まったく知らない若い男だった。
 ヒュウガは口籠りながら尋ねた。
「…ええと、ここ、まえに…いた、おやじさんは…」
 すると、新しいマスターは自分の口の前に人さし指をたてて、ヒュウガを止めた。
「…?」
 ヒュウガが訝し気に見つめ返すと、彼は小声で言った。
「…リアレンジ。」
 ヒュウガは先程とは比べ物にならない衝撃を受けた。
 何と返事をしたらいいか、わからなかった。
「…おまいさん、首突っ込まないほうがいいよ?…せっかくここから出たんだろ。 …おれもおやじには世話になったから、おまいさんの気持ちもわかるけど、 …昔のことは忘れるんだ。ここにはもう来ないほうがいいぜ。 …新しいトコではいろいろ苦労もあるだろう。でも、ここにいたときが幸せだったなんて、 自分をだますなよ。…わかったな、リクドウの末っ子。」
 ヒュウガは無言で彼を見つめかえした。
 …やはり見覚えはない。
 自分がここでは「有名人」なのを、ヒュウガはうんざりと思いだした。
 静かに黒いお盆をとって、奥の席に着いた。
 …別に「おやじ」に何か相談しようとか、ここでのんびりくつろごうとか思って足を運んだつもりなど 少しもなかった。しかし実はなんらかの慰めを求めてここに来ていた自分…。 もの悲しい自覚だった。
 口に運ぶ菓子だけは皮肉なことに、昔と同じ味がした。
 そうだ。ここにいたときが幸せだったわけではけっしてない。
 戻りたいかと言われれば、答えはNOだ。
 新しいマスターの言う通りだった。ここには来ないほうがいい。来れば自分も、他人もいやな思いをする。
 …その後に続く、「でも…」という気持ちを、ヒュウガは意識的に切り捨てた。
 間違っているものは切り捨てなければいけないと思った。
 しかしきりすてたところが…痛くなった気がした。
 店の中ではあいかわらず、子供達が賑やかに談笑していた。 子供達の無邪気な幸福が、神経に触った。
 耳からそのざわめきを追い出そうとするように口に運んだ飲み物は、ぬるく、苦かった。
 …そのとき不意に視界が暗くなった。ヒュウガは吃驚して顔を上げた。
 最近見知った「めんどくさいやつ」…ルームメイトのカーラン・ラムサスが間近に立っていた。
 正々堂々大顰蹙の制服姿が、嫌味なほどにキマっている。
 …物凄く不機嫌そうだ。眉間の縦じわが深い。
 手袋をはめた神経質な手が、小さなカップに入ったエスプレッソをテーブルに置いた。
「…何しに来たんですか、こんなとこ。」
 聞かれる前に逆にそう尋ねたが、第2層出身のルームメイトは、答えなかった。
 子供達は二人をみて声を低くし、何かひそひそと囁きあっている。
「…そんな格好で来ると、目立ちますよカール。」
「ふん、おまえより目立つやつがいれば、そっちは楽でいいだろうが。」
 まるで蔑むような口調で言われてヒュウガはむっとした。
「偉っっそうに。」
「偉そうなんじゃない。本当に偉いんだ。」
 大きな声ではなかったが、叱りつけるように言われたので、ヒュウガはすっかり呆れた。
「…あなたの考えてることはわかりません。」
「…お互い様だ。」
 ますます眉間の皺が深くなる。
 二人は黙って、自分の飲み物をズルズル飲んだ。
 飲み物がからになると、揃って席を立った。
 店を出ても暫く二人は無言だったが、階層移動用のエレベーターに乗り込む直前で、 ヒュウガは犬のように後ろ首を掴まれた。
「なんなんですか ! 失敬な ! 放しなさい !」
 ヒュウガよりも背の高いカーランはそのままヒュウガを壁に押し付けた。ガン!と音がして、 ヒュウガはしたたかに頭を打った。
「…ったあ…」
「こんなみっともない格好しおって!貴様は一体何が不満なんだ !! 」
「放しなさい ! 」
 叫んでみたものの、がっしり押えつけられて、身動きもできない。 ヒュウガをかべに貼付けたまま、カーランはヒュウガの耳もとに低い声で言った。
「…逃げ出したって帰る場所なぞない。わかっただろう。…エレベーターに乗る前に着替えて来い。」
 そして、静かに手を放した。
  ヒュウガは壁から身を離し、一度カーランを睨み付けてから、細い路地に入り込んで制服姿に戻った。
 エレベーターの前に引き返すと、カーランは壁にもたれたまま、腕を組んでじっと待っていた。
 ヒュウガの制服を上から下まで検分するように見て、体のまん中にラインがくるように、厳しい手付きで整えた。
「…言っときますけど、私、別に逃げるつもりとかはないですから。」
 ヒュウガはその手を振払って、自分で襟元をなおした。
「じゃあ何をしに来たのか言ってみろ。」
「別に。単なる息抜きですよ。」
「…おまえ、リアレンジが3層だけの特別処置だと思っているんじゃあるまいな?」
「どういう意味ですか?」
「…シグルドには過去がなくなっている。気付いてないわけじゃなかろう。」
「何が言いたいんですか。」
「…エレベーターを下りたら、学生管理局に尋問されるはずだ。3層で何をしていたのか、とな。 何と答えるつもりだ?」
「…」
「…付けられてたのに気付いてなかったというわけだ。そうだろうな。おれにも気付いていなかったくらいだ。 …管理局は出る杙を打つのがしごとだ。出過ぎていると判断されたら、洗脳されるんだぞ?!」
 ヒュウガは話がそこまできてやっとカーランが怒っている理由がわかった。
 彼は管理局の尾行をゾロゾロつれたまま歩いていたヒュウガを見て…心配して、ついてきてしまったのだ。
 そして店でマスターに「もう来るな」と言われてしぼんでいるヒュウガを見て…つい出て来てしまったのだ。
 けれども、性格がこじれているので、本当のことが言えないし、まして労りや慰めの言葉など口から出て来ないのだ。
「…何と答えるつもりなんだ。こっちも話を合わせなくてはならん。言え。」
 ますます難しい顔になってカーランは言った。
「…余計なお世話なんですよ。手間ふやしてくれて。私一人ならいくらでも言い逃れますけど、あなたどうするつもりなんです?」
 ヒュウガはわざと冷淡に言った。
「おれは別に。心配だったからついていったとでも言うさ。」
 …かわいくない。まるでそうではないと言わんばかりだ。
「そうですか。じゃあわたしは…処分しなければいけないモノがあるのを思い出したから行ったとでも言いましょう。 そしたら既に処分されてたってね。」
 カーランは、何を処分しにきたというのか、とでも言いたげに、ふん、と鼻で笑った。
 そしてエレベーターを呼んだ。
「…何を処分しに行ったか、打ち合わせしなくていいんですか?」
 嫌味っぽくヒュウガが尋ねると、逆に聞き返してきた。
「何を処分しに行ったんだ?」
 ヒュウガはニヤリと笑って、肩を竦めた。
「子供時代に使ってたお気に入りの毛布。残ってると恥ずかしいでしょ?」
「…あそこのマスターに子供のころから相談事してたってわけか。」
 あまりにストレートに事実に結びついたので、ヒュウガは内心驚いた。 …ヒュウガにとっては、カーランという人物は、極めて話の通じない、察しの悪い人物だった。 それがいきなりこうくるとは意外だった。
「…迷惑がられたんだろ。当たり前だ。馬鹿。」
「…」
 …ひょっとしたらカーランはマスターが変わったことを知らないのかもしれない、という気がしたが、 事実を伝える筋合いもない、と思い、ヒュウガはそのまま黙り込んだ。
 エレベーターが止まった。二人は言葉は交わさずに、箱に乗り込んだ。
 箱が動き始めてから、カーランが言った。
「昔どれだけ優しくしてもらったかしらないが、今のお前は連中から見たらもう第三市民じゃないのと同じなんだ。 おまえだって俺が第二市民だからってうざったく思ってるだろうが。 やつらにとってのおまえだって十分うざったいんだぞ。 …何か相談したいなら、ジェサイアがいるだろう。もうこんなところ、下りてくるな。」
 同じ年の人間にこうも遠慮なく説教されると、まったくいい気分とは言い難かったのだが、 ヒュウガはなんとなく、慰めてもらっているのかも…、という気がした。…まったく根拠はなかったが。
「…別にあなたのことうざったく思ってなんかいませんよ。」
 とりあえず攻撃的にそう返すと…箱はとまって、扉が左右に開いた。
 ヒュウガを担当する学生管理官…ジェサイアが立っていた。
「あ〜…、先輩。」
 想像していた光景と違ったので、ヒュウガはいささか拍子抜けして言った。
 なんとなく、そこには、話の通じない役人が何人も待ち受けていて、手錠をちらつかせながら職務質問… という展開を期待してしまっていた。
 二人は箱からでた。
 清潔でまばゆい第二市民層…エテメンアンキの町並み。
「ヒュウガ、どこへ何しにいってたんだ?…学生が無断で3層におりてっちゃいかんぞ。知ってるだろ。」
 ジェサイアはそれでもきっちり役目を果たした。ヒュウガはにっこりして言った。
「いやあ、すいません。昔つきあってた女とちゃんと別れ話してなかったもので ! 」
「…アホかお前は。」
 ジェサイアは呆れて言った。
「…で、話はついたのか?」
「…すでに捨てられていました。」
 そういって「よよよ」と泣き真似すると、ぱかっ、とジェサイアにぶたれた。
「いいか、おまえは特例で入った問題児なんだから、ちょろちょろしねえで大人しくしていやがれ! 洗脳されたって俺はしらねえからな ! 」
 …カーランの言った内容と、大方同じだった。
 ヒュウガは少し考えてから、にぱっと笑った。
「…実は嘘なんです。」
「何が。」
「実は…最近ケンカばかりでルームメイトの友情が信じられないから、試してみたんですv やった〜 ! カールやっぱり私の事好きだったんですね〜 ! 」
 ヒュウガは勢いよく一気に言い切ると、後ろに立っていたカーランにだきついて思いっきりぶちゅーっとキスした。


   *

 …その勢いで二人でぶっ転んだとか、直後ジェサイアとカーランにボコボコにされたとか、そういうことはどうでもいいのだが。
 その後、ヒュウガは何故かおちついて、部屋も居心地よく思えるようになった。…結局3層へその後ふらふら行くこともなかった。なぜなのかは、ヒュウガ自身には、未だによくわからない。
     


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