炎上する寺院


 その日、雨だった。
「…何もなかったわけでは決してないし…ですからもちろん何もなかったと言うつもりはまったくないのですが…。」
「…とにかく入んなよ。」
 …素直に山道で転けたと言えば、ひとしきり笑って終りにするのに、とフェイは思った。なにもそう理屈をこねなくても良さそうなものだ。…なぜだかシタンは、いつも理屈っぽい。…なんとなく、嘘つきっぽい。
「村長、先生がドロドロで登場〜。」
「おお?!」
 家主はびっくりして家の者に着替えを手配するやら、何があったのかとシタンを問いつめるやら。ひっそりしていた家の中はいっとき騒がしくなる。シタンはまだのらりくらりと誤魔化しているようだ。
 フェイは描きかけの絵に戻った。
 フェイが絵に向かっている時、心の状態は元気でも楽しくもない。ただし、そういう状態で絵にとりかかると、終わった頃には憑物が落ちたように平安になっている。雨の日はひっそりと地下の自室で絵を描く。そうすると、夜には、眠たい幼児のようにとろん、と落ち着く。
 しばらくして、また家の中が静かになったころ、シタンがとことこと、フェイのそばにやってきた。
 見ると、いつもの緑色の服ではなく、黒いぴったりとした服を着ている。
「…それ、村長の?そんなのあったんだ。」
「…ええ。」
 とても美しいシルエットだが、濃い褐色の長い髪がひどく重く見えた。
「…ちょっと死神っぽいですかね?」
 シタンが笑って言うので、フェイも少し笑う。
「…死神より、ときどき流れてくる占師とか、魔法使いみたいだね。死神はあまり眼鏡してないから。」
 それを聞いたシタンは面白がって眼鏡を外した。
 フェイはどきっとした。
 ときどき、どうしてシタンは眼鏡をかけているのだろうと不思議に思うときがある。というのは、眼鏡を外していてもそんなに極端に目が悪くて不便というわけではなさそうだからだ。それとも単にカンが鋭いために端からそう見えるだけで、実は苦労していたりするのだろうか。…本当に?
 眼鏡を外すとシタンは別人のような顔になる。
 …どこかの悪魔に愛されて懐に抱かれている猫のような。
 この顔を隠すために殊更にコケティッシュなスタイルの眼鏡をかけているのではないかという気がしてならない。
「…センセイ、眼鏡とると、怖い。」
「怖い?…うーむ。それはいけません。」
 とぼけた口調で言って、眼鏡をかけなおした。
「今日は何を描いているんですか?」
 シタンは尋ねた。
「…ん、これはね、なんか高いお寺みたいな建物なんだ。それでね、こっちが木なんだけど、この木があるとよく見えないんだよね。」
「…でも描くんですね、木を。」
「うん。」
「木のこっちにいるんですね。」
「うん、そうなんだ。木のこっちから見てるんだよ。よく見えないけどね。」
「…お寺は…燃えているんですか?」
「…うん。多分俺が火をつけたんだよ。」
 フェイが思いきってそう言うと、シタンは静かにうなづいた。
「…そうですか。フェイが火をつけたんですね。」
 フェイはうなづいた。
「うん。多分ね。」
「はっきりとは言えないのですね。」
「うん…。木があって良く見えないからね。」
「そうですね…大きな木ですね。」
「うん。…ここにいれば安心だよ。…でもよくないよね。俺が火をつけて、お寺が燃えているのに、俺が安心してるなんて。」
「…フェイは良くないと思うのですね。」
「…うん、思うよ。先生はどう?」
「…事情によりますね。」
「事情?」
「お寺に火でもつけないことには丸焼きにされて食われる、とか、そういう事情なら仕方ないような気もするし…みんなが大切にしてきたお寺なら…大事にしたほうがいいような気もするし。」
「…事情…か。」
 フェイは少し上の方を見てぼんやりした。
「…事情はね、よくわからないんだ。」
「…そうですか。」
「うん。…思い出したくないのかな。きっと悪い事情で、とても先生に許してもらえそうにないから、思い出せないのかもしれないね。」
「…わたしが許すかどうかなんて、別に大した問題ではないのですよ、フェイ。」
「…そうでもないよ。」
「…そうですかね?」
「うん。」
 フェイは絵筆を拾って、少し木を描き直した。…少しこすった程度だが、うんと良くなった。フェイは満足して、筆を置いた。
「…で、先生の泥んこはどうしたんだい。」
 少し冷やかすように聞くと、シタンはへらへら笑って、いやあ実は…と頭を掻いた。
「…ナイショですよ、フェイ。途中で、村の子供が崖下に落ちてるのを見つけまして…」
「え?!」
 フェイはびっくりしてまじまじとシタンを見た。
「ナイショって…、先生 ! その子無事なのか? 誰だよ ! 」
「気絶していましたが、起こしてみたら意識障害もなかったし…ケガも擦りむいた程度でしたから。…彼が言うには、親に怒られるから、バラしてほしくないって。」
「怒られるって…だめじゃん、そういうこと黙ってたら。今回は擦りむいただけかもしれないけど、また同じようなことがあったら…」
「人間には痛い目見たところにはその後あまり近付かない、という習性がありますから、まあ大丈夫でしょう。…経験は百の有り難い説教よりも、よほどよい教訓を残すものです。」
 フェイは黙ってシタンの顔を盗み見た。
 するとシタンは言った。
「…フェイ、ダンのうちは本当の親じゃなくて、親戚なのです。彼もさすがにまずかったと思ったようなのです。…だから貴方もナイショにしてあげてくださいね。」
「…」
 フェイが黙っていると、シタンは雨粒の痕が気になったのか、眼鏡を外して袖口でレンズをふいた。そのうつむき加減の美しい横顔に、フェイはまたどきっとした。
 シタンはフェイのほうは見ずに、熱心にレンズを傾けたり裏返したりして磨き続けながら、さらりとした調子でこう言った。
「…貴方が馬鹿やったときも、貴方が反省している様子だったら隠しておいてあげますよ、フェイ。」
 フェイは少し寒気を覚えた。
 隠すって。
 誰に…?
 シタンは目を閉じて静かに眼鏡をかけなおすと、ぱっちり目を開いて、フェイを見てにっこりした。
 いつもの、のんびりとトボケたあの笑顔だった。
「…燃えるお寺の絵…だったのですね。私はてっきり大木の絵かと思いましたよ。フェイは木が好きですしね。」
 そう言われて、フェイがもう一度自分の絵を見ると、確かに存在感のある大きな木の絵に見えた。フェイは苦笑した。そしてシタンに言った。
「…先生、バラさないでね。」
 シタンは少し首を傾げた。
「これが燃えるお寺の絵だってことをですか?」
 フェイは首を左右に振った。
「…俺がお寺燃やしたことを、だよ。」
 シタンは少し黙って、それから少し笑った。
「…ええ、いいですよ。」
 雨はその日から、3日続いた。
 3日続いた雨のおかげでフェイは首尾よくお寺をぼかし、絵は夕焼けの風景画に化けた。
 フェイがお寺を燃やしたことは誰も知らない。
 シタンの他には、誰も。


戻る