そのころ、旅をしていた。
連れは、良く鍛えられている大人の女が一人と、小さな女の子が一人。
妻と娘だった。
…大変そうに聞こえるかもしれないが、そう悲観したものでもなかった。何しろ妻は気丈な女だったし…その気丈さを、まだ幼い娘も受け継いでいたし。おかげさまで女の金切り声の悲鳴などというものは、この旅の間、一度もきいたことはない。
それに何故か彼女達と一緒にいると、不思議と落ち着いた。
自分がしっかりしなくてはいけないという気負いのようなものがあったせいもあるのかもしれないが、まるで一気に20も老成したかのような、…心の進化とでも言うべき現象がおこった。
だがアクシデントに見舞われたときの心配もまた爆発的に増加したというのも事実だ。
もともと自分は割に物事をおっとりダラダラ均質な早さでこなすタイプなので、日常、焦ったり慌てたりということは少なかったのだが、この旅の間ときたら、心臓が口から飛び出すのではないかというくらい心配したことが数え切れないほどあった。イイこともワルイことも、それまでの人生ではけっして味わうことのなかった体験が、その旅の間にはたくさんあった。
…だから、そう悲観するほどのことではなかったのだが…まったく大変でなかったといってしまうとそれもまた嘘になる。*** 目的地まであと少し、というところに、深い森があった。
空も大海も砂漠もともに助け合って越えた妻と娘ではあったが、さすがにその森には、幾分危惧させられた。森は視界が悪い。広々とした空の下で育った妻や娘にとっては、何より心理的弊害が大きいのではないかと思われた。
妻と話し合い、とりあえず一旦ルートを確認するために、自分一人で森に入ることを決めた。
無口な娘の見送りで、朝、野営地を発った。妻と娘は一旦近くの町に引き返し、父親が戻るまでホテルで休養をとる約束だった。…娘の柔らかい足は傷だらけだったし、妻も膝か腰が痛むのか、歩き方が少しおかしくなっていたので、無理矢理そうさせた。
…実は娘が産まれたとき…難産だった。妻は腰をいためて、産後、普通よりも長い間歩けなかったらしい。…それは…武道家としての終焉…いや終焉とまではいかなくても、当座の活動停止を意味している。妻はそのはんなりした美しさからは想像もつかないが、500年続く武道の名家の一人娘で、流派を継承するべく育てられたまさに一流の武道家である。シェバト王宮に出入りし、女王の信頼も篤く、ときには女王の隠密として、またときには女王のボディガードとして、一風変わった女官職をつとめていた。
そんなこと本人は一言も言わないし、歩く姿にそんな痕跡はまったくなかったが、舅にグチられたので病院の記録を覗き見して確認すると…本当だった。2人でいるときにそれとなくきいてみたものの、もう大丈夫です、心配なさらないで、と妻は困ったように笑っただけだった。…とりつくしまもなかった、と言い換えてもかまわない。
今は完治しているとはいえ、長く歩いていれば、体は故障跡から失調していくものだ。少しでも休ませたかった。
森の中は日中でも暗く…「鬱蒼」などという画数の多い表現をひっぱりだしてきたくなるような有り様だった。
植物が成長すると小さな道などはどんどんつぶれてしまうのだろう、苦労して軍の機密ファイルからひっぱりだした地図も、まるで役に立たなかった。
それでも幼い娘をともなってこの森を越えるためには、森のどこかで一泊する必要があった。
地図の中には野営可能な場所が記されていた。そのいくつかには小屋のマークや遺跡のマークが記されている。ときどき恐ろしいほどくるくる回る磁石と、梢の隙間にときおり覗く太陽と腕時計を頼りに遺跡を探した。こういう未開の土地で一番頼りになるのは生きている人間や新しい山小屋だが、古い小屋しかない場合はむしろ無人の遺跡のほうがいい。堅牢で電気があるし、主人がウェルスである心配もないし、危険な生き物が入り込んでいる確率も低いからだ。
ぐるぐる歩き回り、やがてぼちぼち一日目の日暮れかというころに、建物の前に出た。いかにも遺跡らしい風情で、マウントのなかに半分ほど埋没していて、入り口には遺跡特有のパズル式のロックがついていた。夕日が心もとなくなる中、辺りの枯れ枝を集めて火をたき、その灯りでパズルをとき、1時間ほどかかってロックを解除した。*** トビラをあけてみたが、残念なことに照明が死んでいた。
普通の遺跡ならドアがあいた途端に照明が灯るのだが、ここはそうならなかった。…幾分がっかりした。
それでもランカーが出るというこの森で、無防備に野宿するよりは、トビラと壁があるというだけでもここのほうがましだ。それに地べたにはまれに毒虫がいて眠っている子供の耳にはいりこむことがあるが、ここなら床があるから多分大丈夫だろう。もう泣きながら歯を食いしばる娘の耳からゲジゲジをひっぱりだすのなんて金輪際御免だ。…いや、ゲジケジでよかった。ムカデだったらおそらく娘は死んでいただろう。
虫が嫌だとかそういうことではなくて…だから多分虫が入った先が同じ年下でも後輩とか軍の部下とかの耳であったならたとえそれが女でも平気でピンセットをつっこんでライトでてらしつつ「はいちょっとがまんして〜」と言ってずるずるっと…それはもうゲジゲジだろうがゴキブリだろうが知ったことではないのだが…そうではなくて、…娘が妻そっくりのそれでいてもっと幼い小さな可愛い顔を歪めて涙を流すのを見ると、体に力がはいらなくなって、こんな無力な父親なんか死んだほうがいいという気持ちになってしまう。ピンセットを持ち出すと怖がって目をぎっちりつぶってしまってまるで父親が酷いことすると批難しているかのように(それは自意識過剰か?)母親の服のそでを掴んで…。あんなにつらい思いは滅多にない。
荷物の中からカンテラをとりだして組み立て、たき火の火を移すと、たき火は一応そのままにして、遺跡の中へ入った。カンテラはブレイダブリクの古物商で安く買ったものだ。灯油か菜種油を入れて火をつける。雨が続くと充電できない懐中電灯の代役として、旅の間、随分と助けになってくれた。…今日も「鬱蒼」のせいで充電はできていない。
遺跡はたいていエントランスのようなものがあり、その奥に入るためにはもう一段階ロックを解除しなくてはならない。けれども一泊の宿として使うなら、このエントランス部分だけでも十分用は足りる。案の定入り口部分はけっこう広めのフロアになっており、荷物を置いて親子3人川の字で寝るのに狭いということはなさそうだった。一応そのホールをくまなくみて回り、状態を確認した。虫や獣が入り込んでいる気配もなく、先史時代の遺跡に特有の冷たい清潔感が維持されている。問題なさそうだった。これで電気さえつけば完璧なのだが…まあ、なくてもなんとかなる。
安堵の溜息をついてとるもとりあえず、腰を下ろした。そして荷をほどき、携帯食料の封を切った。
妻の作る温かい食事になれてしまうと、栄養学が優先された小さな食べ物は、味気なかった。…昔はまったく気にならなかったが。…これが結婚するということなのか、と思い、少し気持ちが浮かび上がり…そしてふんわりと沈んだ。
補給が終わってからもう一度たちあがった。外は日が落ちている。今夜はここに泊るのがいちばんいいだろう。先程みまわったときに見つけたトビラに、念のため近付いた。もしかしたら簡単にあくかもしれない。開くなら中を確かめておかなくては。
カンテラを近付けてよく見ると、そこは拍子抜けするほど簡単な電子ロックになっていた。工具を取り出してパネルをひらき、中の小さなコードをつまみ、ぱちぱちと火花を飛ばしつつ3本ほど切ると、ロックは簡単に解けた。…どうも電気が来ているようだ。注意深くドアをひっぱった。
*** ドアが少し開くと、何か濃い森の香りがした。
(…しまった、中はどうやら崩れていらしい。)
ちょうどエントランスのところだけが生き残った形だったのだ。他は森に侵食されつつあるのだろう。
土と水の匂いがした。
となると、なおさらみておかなくてはならない。…幸いガス系の匂いはしない。
(開けるんじゃなかったなあ…)
…後の祭だ。
カンテラをドアの隙間から突っ込んで中を見回した。
匂いは濃いのだが、部屋は床も天上もしっかりしているようだ。
念のため装備を強いものに取り替え、中にふみこんだ。
入ってすぐのところにブレーカーがあったが、こうもシケっぽい匂いがするのでは、漏電の危険性が否定できなかった。
(エントランスだけでも…)
ヒュウガはブレーカーを覗き込み…ロックに電気がきていた事実を頼りに回線をしらべ、エントランスに電灯をともした。それは遺跡にしては珍しいことに、間接照明的な、柔らかい光だった。…薄暗い、と言い換えてもよい。
(…なんの遺跡なんだか…まあ大方の遺跡は利用目的など不明ですけど…)
入り口だけでも照明がつけられたので少し気分がよくなり、気を取り直してその二番目の部屋を探索した。
部屋には幾分埃がたまっていて、天板の壊れたテーブルの横に、足の折れた椅子がいくつも転がっていた。…まるで誰か…いや興奮したウェルスが次々と家具をたたき壊したかのようだ。椅子は数えてみると、9つもあった。だがあのウェルス独特の臭いはない。もしこれをやったのがウェルスだっとしても、最近のことではないようだ。
(ここは詰め所みたいな感じだな…あ、流しがありますね。)
天上から長く垂れ下がる何かのコードを避けながら、流しに近付いた。カンテラを流し台の上に置き、周囲を探して水の元栓を見つけた。塩素か何かがこびりついて真っ白に固まってさらに緑錆のような色を吹いていたが、レンチで回すと少しだけ動いた。力を込めて更に回すと、水道がぼこぼこと音をたてた。
(しめた、水が出ますよ〜。)
急いで蛇口を絞ると、少しして真っ赤な水が出て来た。
(…錆びてる…)
少し流してみよう、多分キレイになるだろう、と思い、そのまま放置して、部屋を見回す。どうもここは、先史時代に放棄されて遺跡になったあと、この時代の人間がしばらく住居として使っていたようすだった。エントランスと、中との妙なギャップはそこから来ているらしかった。
(ここの家具とかエントランスの電灯とか…きっと改造したんですかね。水道も多分同じ人が地下水を組み上げてそれをひっぱってきたのでしょう。…沸かせば飲めそうですね。有り難い。)
ふと、奥のドアの隣に目が止まった。
(…あれは…もしかして、カレンダー?)
近寄って調べてみた。そして、少し眉をひそめた。
(…ソラリス文字?!…しかも手書きのカレンダー…)
壁からはずさず、ページをめくってみる。
(これ…ほんの10年ほど前のもの…ですか?)
ここを住居として使っていた一派がここを放棄してから、まだ10年ほどしかたっていないらしい。
再び部屋の中を見回した。
…10年。
(やだなあ…。出るんですよね、そのくらいの廃屋って…モンスターとかウェルスとか…)
壊れたテーブルと椅子をもう一度ふりかえった。
…わが子が生まれたときに、今後決して抜くまいと決めた太刀が恋しくなった。妻が子供の誕生と同時に武器を手放したのは体が失調したせいだろうが、自分は違う。ただ倫理的というか、道徳的な都合にすぎない。
(…駄目だ、こんなことでは。ただ道徳的な都合?とんでもない、信念の問題だ。オバケ屋敷の恐怖にまけて、「一瞬取り消し」というのはあまりにも情けない。……でもまあ、軍用ナイフならいいでしょう。うん。)
主に狩りと獲物の解体につかっている長いナイフを武器として解禁にし、気をとりなおした。とにかく入り口付近は完全封鎖が成功していた建物なのだし、ここも虫などはいない。そこそこ密閉されていたとみて間違いない。
(…しかし…なんだろう、こんなにシケっぽい匂いがするのに黴一つない…。黴にとっては気温が低い…?それとも一時期猖獗をきわめて、かびの食い物が尽きたのでしょうか…その割に木のテーブルは無事ですけど…。まあもともと遺跡ですから、防虫防カビのシステムがあるのかもしれないですねえ。)
カレンダーの隣にあるドアに目を向けた。
…嫌だが、行くしかあるまい。
ドアを開けた。*** すうっと冷たい空気が流れて来た。
(さ…寒い!)
びっくりするほど気温が低かった。
(なんだ?冷蔵室??)
遺跡にはまれに、自然環境を利用した氷室や保温室などがある場合もある。ここもそうした冷蔵庫なのかもしれなかった。とりあえずトビラを開けたまま、部屋にすべりこんだ。
背後では水道の水音がつづいている。
(こ…これはまずい。やはり一時的にでも照明をつけましょう。カンテラじゃなにも見えない。)
もういちど引き返し、ブレーカーのところまで戻った。
さっきの調整でだいたいのことはわかっている。建物全部の照明を、全て一気にともした。
(…さて。火事にならないことを祈って。)
回りを見回す。…そしてうなづくと、カンテラを消した。そしてカンテラはそこに静かに置き、先程の寒い部屋へもどった。
その部屋は壁が四方全面、格子のようなブラインドのような…そういう不思議な構造になっていた。
(…電気を通したせいか…風が…。ここ、空調の関係の部屋…なのかもしれません…。)
風がとおったせいか先程の恐ろしい程の寒さは和らいでいた。
(ここで冷やした空気を建物中に循環させている…ようですね。…空気清浄もここでしているのか…なんの臭いもしない。)
大掛かりな空調設備だった。
(…発電機なんかもありそうだな…どこにあるのかはわかりませんが…)
改造してあったエントランスと違い、他の照明は痛みを感じるほどに強いものだった。…日焼けしそうだ。
(この感じ…、紫外線まざってますね、間違いなく…。消毒も兼ねているのか…。これなら間接照明に改造したくなるのもわかる…)
壁から剥がして持って来たソラリス文字のカレンダーのページを全てめくり、明るい照明の下で、中をしらべた。
カレンダーにはところどころに書き込みがあった。
(7の月…数字表記はアヴェ歴ですよね…アヴェ歴を自分でソラリス語になおしたわけだ。本国と連絡が切れた人間ですね…。キスレブではなく…アヴェのソラリス人ですか…。一体何があったものやら…。)
(4日…買出し。5日…ダジル。…買出しはダジルじゃなくブレイダブリクへでも行ってたんですかね…)
(7日…会合)
(7日の会合のために買い出しへ行ったのか…。会合、ね。一人じゃなかったわけだ。家族…でもない。…何らかの組織ですね。)
(10日…リリイ。…リリイ、か。そういえば5月と6月にもありましたねえ、リリイって。…女の連絡員…いや、カノジョかな。)
(いずれにしろ…これを書いた人にとってはリリイさんと会う日は嬉しい日だったのでしょうね…。用件でも地名でもなく名前を書いているのですから…。)
(15日…バツ印。)
(以後リリイさんとのデート、なし、か…。)
(別れちゃったか配属変えか…)
(気の毒に…)
貼ってあったとき、カレンダーは8月の面が表になっていた。ここは8月まで使われていたのだ。7月を最後に、リリイの文字はない。
(8月は…4日の「連絡」が最後か…。)
少なくとも8月の始めまでは、ここにはスケジュールがあったようだ。
(そのあと撤収…。空調止めて水おとしてブレーカー切って…テーブルと椅子をたたき壊して…?)
(いや、あれはだれか別の侵入者がやったのかも…)
(15日は何のXデイだったのでしょう…)
(10年前の7月15日…)
(…あ〜なんかそのころって…私16ですか…。いろいろありましたよね…いろいろ…)
そのとき唐突に思い出したことがあった。
(あのころって…ソイレントシステムが一番暴走してたころですよね。)
(ヴァンホーテンが管理官で科学者を押さえ切れなくて…ヴァンホーテンどうしちゃったんだか、急に人がかわったように気弱になったとか誰かが言ってたっけ…あ。そうか。)
(…彼の娘…当時5才だ。)
それはあまり楽しい知識ではなかった。ばりばりと頭を掻くと、カレンダーをもとに戻した。
照明が照らし出したブラインドに取り囲まれた微風の部屋の奥には、まだ続き部屋の扉があった。
隣の部屋では水音が続いている。*** その戸を開くと、中は少し大きめの物置きといったようすだった。
空気はいい。
奥のほうにテントにでもつかえそうなごわごわの大きな布が丸めて置いてあった。かなり大きなものだ。
それ以外のものはなにもなく、物置き部屋はがらんとしていた。
そのごわごわの布地に記憶があって、歩み寄った。
(…これはギアのリアセンサー用の刻印反射布では…珍しい…イグニスにこんなものがあるとは…)
イグニスはアクヴィと違って教会の勢力はそれほど強くない。だから対刻印系の、それもギアの装備にお目にかかることは滅多にない。まして10年前の対刻印装備といえば、まだ機密品だった可能性が高い。対刻印装備が本格的に出回り始めたのは、シェバト戦役の後、シェバト産のものが交易解禁になってからだ。
(…ここにいたのは教会関係者だ…それもなかり地位の高かった人物がまじっていたんだ…。)
(ということは…ハ−ヴェストのスタッフから離反した一派ってことか…)
布の端を拾いあげてみた。ずっしりと重い。ギア装備に間違いなかった。
(…本国では…そんなこと絶対に表には出ないですからね…。)
ここを引き払ってその一派がどこへ向かったのかは、知るよしもない。
彼らは今どこでどうしているのだろうか。…そしてここの誰かに愛されたリリイという女性も。
しかし、それにしても妙に思えた。
(こんな…当時高かったろうに、こんな装備を残してゆくなんて…。他のものはきれいさっぱりないのに…。)
リアセンサー保護用の布はギア用で重いとは言っても、バギーを覆う程度の大きさだ。テントを想像したのもそのせいだった。…先人に敬意を表して畳もうと思い、引っぱった。布はかわいた床をすべり、案外と楽な手ごたえでこちらに引き寄せることができた。そして…
「…あ。」
その下から、きれいに死蝋化した人間の遺体が現れた。*** 死因は毒だった。…舌の色でわかった。
傷みの少ない遺体で、顔つきもはっきりわかった。
真面目そうな男だった。多分、背は高い。痩せている。
着ている服は…上着はアヴェのありきたりなものだったが、中に着ているインナースーツはソラリス製だった。ソラリスの服は温度や湿度を微妙に調節してくれる。自分にもおぼえがあるが、上着は目立つので仕方なく手放しても、インナーはなかなか手放せない。
…上着の下に、Y字のクロスをかけていた。間違いなく教会関係者だ。
教会がなんのための組織なのかなど…ユーゲントを出たソラリス人なら誰でも知っている。…なぜ組織をはなれても、こんなものをかけ続けているのか…。
(信仰ごっこしているうちに、心の中に本物の信仰ができてきたのかもしれませんね…。信仰…っていうか…信念とか、神様がらみの倫理感とか…道徳感とか。それとも、教会での地位をはずれてからも誇示する必要があったのでしょうか…。まあ一般人がメンバーにふくまれていたら「神父さま」とか呼ばれている可能性もありますからね…。それに聖職者だって言っておけば気軽に女の子と付き合えるし…まるで下心ないように聞こえる言葉ですよね「聖職者」って。)
一応念のため、写真だけとった。
…何故毒殺されたのだろう、一人だけ…。一体誰に…。
部屋はその物置きで最後だった。
遺跡の奥へ続く部分は封鎖してしまったのか、もともとないのか…それはわからないが、とにかくもうドアはなかった。
遺体を前にして、自分が先程よりもよほど平静になっていることに気がついた。職業訓練のたまものというか副産物というか…「医者回路」が発動すると、ついでに冷静になってしまうのだ。
(あれ…)
襟元をととのえてやろうとして、かさりという音に気がついた。そっと衿をひらいて見ると、胸の内ポケットに小さな手帖が入っていた。…とりだそうとすると、小さく折り畳んだ紙片が一緒に出て来た。
古い紙を丁寧に開くと、細かいが乱暴な文字で感情的な書きなぐりがしてあった。
(…)
眼鏡を直して、じっとそれを読んだ。地上の文字だった。
(女手だな…)
内容は…指示語が多用されていて詳細はよくわからなかったが、自分を捨てる酷い男を詰ったものだった。文末に、小さくリリイ、と書いてあった。
(…捨てたのは男のほうか。)
もう一度その真面目そうな男の痩せた顔を見た。
(…じゃあ殺したのは多分…)
(…そのリリイさん、ですか。)
(…しくじりましたね、「神父様」。)
地上の文字、ということは…リリイなる女性は地上のひとだということになる。
(…現地妻ってとこですかね…やれやれ…)
(そりゃあわたしも人のことをとやかくは言えないが…でも結婚しましたからね!)
今度は手帖のほうをそっと開いてみた。
手帖は全てが点線で罫の入ったフリーページタイプのものだった。
こちらはソラリス文字でみっしりと色々書き込まれている。
(隊商かららくだを2頭…ふーん。御買い物のうちわけですか。)
(こっちは…と。)
(え…と。…1→テルマー…2→ジョスル…??なんだこりゃ。…あ、テルマーってどっかの地名だった気がしますが…。わからない。まあいいか、別に。)
(あ…これは…)
新しく見つけたページには、リリイのことが色々と書かれていた。
「リリイがここに出入りし始めてから、あらゆる生活がかわってしまった。いや、実際はなにもかわっていないのだ。けれども喩えて言うなら、まるで別の色のフィルターが目にかかってしまったかのようだ。…それも暖色の、柔らかい色のフィルターだ。食べ物の味や、空気の臭いがまったくちがっているような気がする。何より自分がひどく柔らかくなった気がする。…」
(…結婚もしてないうちからこれは重症ですねえ…。ここまでいっちゃったら、とりあえず寝とかないと一生後悔するでしょうね…。)
文は延々とつづいている。途中何度か日付けがかわっていた。おおよそ半年にわたって、リリイへの恋心がつづられていた。
「…だがリリイ、別れなくてはならない日がきた。我々はアヴェを離れ、キスレブに入ることになった。君をつれていこうかと随分考えた。だが、連れて行くことはできない。君は復讐を手伝うには若すぎる、そして一緒に隠れ住むには、その手は目立ち過ぎる。…」
(手…?…亜人か!)
「…それはすぐに君に死を、そして我々の活動に破滅をもたらすだろう。…君のかたわらで、君の作るものを食べながら、この深い森のなかでずっと2人でいられたら、どれほど幸せだっただろう!…だが私にはそれはできない。君の母親をただの実験動物として殺したソイレントに、思い知らせなくてはいけない。それが我々の使命だ。」
何かが頭のなかで動き、ふたたび紙片のほうを読み直した。
そして愕然とした。
娘、だ。リリイは、子供なのだ! もう一度手帖を読み直した。リリイへの恋心かと思っていたものは、読み直せば単なる親馬鹿だった! 道理で何ヶ月たっても肉体関係に発展しないわけだ!リリイが彼の子供であるかどうかは別として、彼のそばで熱心に働いていた亜人の女性の娘、であるのはまず間違いない。おそらくこの男が深い仲だったのは、その母親のほうなのだ。
…愛した女の大切な娘を、復讐劇に巻き込むわけにはいかなかったのだ。
その呆れるような…リリイの人格を無視した愚かな思い込みが…
(…手にとるように理解できる…そのうえ共感もある…われながら情けない…。)
思わず目を閉じて首を左右に振った。
もう一度、紙片をじっくり読んだ。
「…でもナシル、わかって、私は誰の血ももうほしくない。きっとあなたもすぐに泥の底で冷たくなってしまうんだわ。私をたった一人残してゆくの?…」
(ナシル…。この男はナシルというのか。…泥の底で冷たくなるっていうのは、自分を忘れてしまうって意味じゃなくて死ぬって意味か?)
「…一人でなんか生きてゆけない。どうすればいいの?あのとき話合っていたような、あんなことはもうやめて。私とこの森で暮らして。いつか誰にもしられずひっそり土に帰れば、いったいだれが責めたりするでしょう。」
(…この子は…復讐を嫌がっている。一緒に暮らしたいと言っている…。気の毒に…。復讐などせずにひっそり暮らすほうが確かに幸せだ…。亜人の娘は、諦めて幸せになることを知っている…。でもエリートの神父様は…無理だ。諦めることは、負けることでしかない…。…それに…相手はソイレントシステムだったんだ…しかもあの当時の。ぶちこわす価値はあるし…良心がかけらでもあるなら…憤るだろう、誰でも。けれどもどこから見ても正しいその憤りは、可愛いリリイを不幸にしかしない。…可哀想な2人…。)
ふたたび手帖に目を移し、続きを読んだ。
「…本国の同志が突き止めたことがある。ソイレントはナノマシン兵器の開発に成功している。それは細菌によく似ているが、細菌と違うのは生きていない有機プログラムだということだ。人間の体内にはいって爆発的に増殖するが、それは生殖によってうまれるのではない。人体のRNAのコピーミスを誘発することによって、人体自身が新たに作成してゆくのだ。ソイレントは管理ミスをよそおって第三市民層で集団人体実験を行っている。許し難いのは、研究員たちがこんなことを言っていたそうだ。13人に一人の割合でこのコピーミスを防ぐ酵素を持つ人間がいるというが、ある家族がまさにこれを体現し、12人死んだが一人生き残ったと。笑いの種にしているらしい。」
…目がそこで止まった。*** 持ち上げようとすると、死蝋化していた遺体は簡単にぼろぼろとくずれてしまった。ばらばらの死体の断片を持って、外へ出た。外では先ほどのたき火が、まだ勢い良く燃えていた。
死体を、その火に放り込んだ。…ちゃんと燃えた。
何度か往復して、全ての断片を、火にくべた。
…本当にリリイがナシルを殺したのかどうかなどどうでもいいことだ。もしそうだとしたら、多分リリイはナシルが思うよりずっと「女」で、やっぱりリリイもナシルの愛が恋人のそれだと思っていたからで…多分ここへもナシルがリリイをつれてきたというよりはリリイがナシルを追って来たからで…そして「一人でなんて生きられない」というのは皮肉な嘘だった、…たぶんそんなところなのだろう。最後のデートの別れ話のあと、もう一度だけリリイはアポなしでナシルを訪れた、そして、自慢の手料理に致死量の毒をまぜて、ナシルを永久に自分のものにしたのだ。水道の水抜き、電気のブレーカー、女の子らしい行き届いた後始末をして、ここをナシルの墓標にした…のだろう。あの×印は実はリリイがその日に書いたもので…ナシルを殺したあと、彼女は何食わぬ顔でここにしばらく住んでいたのかもしれない。8月のはじめまで。
どうでもいい!そんなことはどうでもいいことだ!
…頭がガンガン痛んだ。あの頃のような頭痛だ。誰もいない、拭き浄められただだっぴろい道場の廃屋で一人家族の死と静かに向かい合っていたあの頃。
…こんな、誰がどう伝えたのかわからない、根拠のない噂話などに耳を傾けてはいけない…心のどこかで自分がそう言っていた。けれども。
…けれども、頭痛が止まらなかった。
たとえソラリス人特有の冷酷さで自分の目的のためにリリイを不幸に…ついには殺人者にしたのだとしても、…もうナシルをどうこう言う気にはなれなかった。
(きれいごとでわりきれるものなど、きっと世界には数えるほどしかない。)
(ソイレントを)
(あのころソイレントを叩こうとしていた人がいた)
(私の家族が辱められたことに怒りを覚えたひとがいたのだ)
(その人は)
(自分の娘に殺された)
火のそばに腰をおろし、頭を抱えた。
(…痛い…)
頭痛はまったく少しもよくならない。
紙片と、手帖も火に放りこんだ。カレンダーも。ウェルスの感情発作のために破壊されたかのような木製の家具も薪がわりにつぎつぎと放り込んだ。できればあの布も燃やしてしまいたかったが、それはさすがに無理だった。
(…私は何をしているんだ…こんな森の奥で…一人で…頭を抱えて…馬鹿げてる…守護天使になってもまだ足りないのか?こんなにがんばってもまだ…)
(いつになったらあの伽藍堂の薄暗い道場から抜けだせるんだ?)
(恨みと絶望と復讐心で薄暗くなっていたあの広い廃屋から)
(いつになったら…)
我侭で身勝手で、自分のことしか考えられないリリイ! お前が馬鹿げた殺人をおこさなかったら、歴史は変わっていたかもしれないのに。
…けれども。
ナシル以外の誰が亜人のリリイのことを考えていたというのだろう。リリイが自分のことだけで頭がいっぱいになってしまったからと言って誰が彼女を責められるだろう。リリイは広い海の水面を生涯泳ぎ続ける小魚のように生きていた。ナシルは彼女に糧と隠れ家を与える大きな浮き藻のようなものだったのだ。彼女が引きちぎってでもそれを維持しようとしたからといって何が我が儘だというのか。…できれば殺さずにそうすることを、彼女だってどれほど願ったことだろう。あの折り畳まれた紙片がそれを雄弁に語っていたではないか。
やがて死蝋に変わって行くナシルの体を見つめながら、自分のやった見当違いの凶行を、リリイはどれほど嘆き、そしてどれ程後悔したことだろう。ナシルを刻印から守る丈夫な布で被い、完全に部屋を密閉し、ある時期からはおそらく自分もそこに入ることをやめて…結局ナシルの亡骸を燃やすことも埋めることもできなかった可哀想なリリイ。
…集めた枯れ枝を、すべて火の上に積み上げ、燃やしているものを見えないようにした。
(彼女は…罪の報いを多分十二分に受けた。)
(私が燃やしておきますよ、リリイ。…あのころの、あらゆる絶望と一緒に…。)
(私は…出て行かなくては。)
(あの誰もいなかった広い薄暗い廃屋から…)
(出て行くと決めたのだから。)
(…あなたもあのとき旅だつことができたらよかったのに)
(どこでもいい、ナシルを忘れられる場所へ…)
その枯れ枝を炎が舐めるのを見て、少し気分が落ち着いた。
(…頭痛薬、飲みましょうか。きっと頭痛はショックのせいでしょう。)
(安静にしていればすぐなおります…火が消えたら、中で寝ましょう。掃除もすんだのだし。)
そうだ。下見の目的は達成した。…そのことが幾ばくか慰めになった。これで安心して、妻子を連れてくることができる。
ふう、と溜息をついた…その時だった。
(…!)
気配に反射的に飛び退いた。体勢が整うのと同時に、ナイフを抜いていた。
「…何を燃やしているの?」
いつのまにかそこにいたらしい女が尋ねた。…答えた。
「…過去を。」
女は、…独特の異臭を放っていた。
(…ウェルスだ。)
膝を落として油断なく構えた。
「…誰の?」
女はくぐもった声で言った。…泣き声のような声で。
そして濁音の悲鳴をあげると、自分の腕を引きちぎった。
(うわ!)
その地獄のような光景に体中の毛が逆立った。
女はぼとぼとと肉片を落しながら、引きちぎった腕を叩き付けて来た。
(!…くそ…)
目をかばうために上げた左手に腐った腕は激突し、衝撃でばらばらと砕けた。…ひどい臭いがした。
女のウェルスはまた低い濁音の悲鳴をあげた。その恐ろしい叫びに、森の生き物たちが騒ぎ出した。まるで呼応するかのように、激しい、悲しい遠ぼえが幾重にも折り返してくる。
「…あなた…リリイさん?」
ウェルスは応えず、その代わりに体当たりしてきた。危うくたき火に叩き込まれかけながらもからくも踏み止まり、ナイフで振払った。刃にひっかかった肉片がスパッと切れて飛んだ。
(そうなんですよ、こういう古さのとこって…主が死霊になってたりするんですよ!)
あたりにはウェルスの独特の悪臭がたちこめ、森の生き物は興奮してざわめいている。火は間近な場所で勢いよく枯れ枝を…そして過去をもやしていた。
「…可哀想に! 彼と一緒に炊き上げてさしあげますよ。楽におなりなさい!」
思いきり勢いをつけて回し蹴りをかけた。
ウェルスは粉々に散らばりながら、火のなかにばらばらと突っ込んだ。乾燥しているウェルスは、チリやホコリのようによく燃える。あっというまに炎につつまれた。悲鳴をあげるひまもない勢いで。
「…成仏してください。」
ウェルスの乾いた肉片を払いながら、ふう、と溜息をついた。
森の生き物はまだばさばさと梢を鳴らし、悲しい遠ぼえをつづけている。
…葬送の歌のように。
「…念のため。」
そうつぶやき、たき火に気をかけた。
爆発的にオレンジ色の炎が吹き上げ、中のもの全てを一瞬で焼きつくした。*** 朝、目が覚めてたき火の跡を見ると、薪も遺体もウェルスも、大方灰になっていた。残っていた骨片などを、穴を掘って地面に埋め、あたりをきれいにかたづけた。
すっかり透き通った水道の水を汲み、撒いて火種を絶った。
それから味気ない食事をして、もう一度全てのドアを閉め、水道を落とし、電気をおとし、最後にエントランスのパズルを組み直した。
再び草木を払いながら「鬱蒼」と丸一日格闘すると、森をぬけることができた。そこからは目指す集落が微かに見えた。
少し無理をおして歩き、日暮れのころ、その集落に入ることができた。
村長の家を訪ねて、自分は流しの医者で、薬草を売りながら旅をしている、宿を世話して欲しいというと、宿を紹介するからさっそく一人みてやってほしいといわれ…首尾よく目的の人物に会うことができた。重度の火傷を負っていて、虫の息だった。…まあ、でも多分死なないだろう。接触者がそう簡単に死んでたまるか。
できる限りの手をつくし、村長に言った。できることはしました。あとは運を天にまかせましょう。村長は、しばらく滞在して看てやってくれまいか、と言った。はじめはそっけなく、ええですが申し訳ない、ここは旅のルートではないので、自分の好奇心で立ち寄っただけです、妻子をダジルに待たせてあるから早く帰らなくてはいけないし…と答えた。すると「あんた森を一人で抜けてきたのかい」とたいそうびっくりされ…事情を尋ねられた。簡単に真実を…つまり周囲に反対されて妻と一緒に暮らせないからお互い故郷を離れて来て、流れ歩いているということを話すと、村長はそれならこの村で開業してくれまいか、うまくいくようにいろいろ世話をするから、と言った。村には医者はいない、みな歓迎するだろう、と言った。詮索させないようにするから、家も村から少し離れたところに建ててやっても良いし、村の中にあんたが気に入った空家があったらそこに住んでもいいから、と言った。…このうえもなくいい条件だった。
それでもなお宿で一晩考えます、と、じらしておいて、つけくわえた。いずれにせよ明日の朝もう一度あの患者さんを看てからお返事しますよ。
…もし本当に死にそうなら妻子を迎えにいってる場合ではなかった。
翌朝、案の定奇跡的な回復を見せている患者の容態に満足し、村でお世話にならせていただこうかと思います、と返事をした。患者の容態は回復にむかっていることを告げ、起きたら飲ませる水の量と包帯を換えるタイミングを指示して、妻子を迎えに行った。*** 無口な娘は宿の前で、石を並べてあそんでいた。
「…発ちますよ、ミドリ。」
静かに言うと、父親の顔も確かめずにぱっと立ち上がり、非常呼集とばかりにぱたぱたと中へ荷物をとりに向かった。
その後を追って部屋へ行った。
…妻はベッドに横になっていた。辛そうな表情で目を閉じ、汗をびっしょりとかいている。
そのそばへ歩いて行き、傍らに腰を下ろし、痛みますか、と静かに尋ねた。妻は驚いて目を開けた。
「…あ、おかえりなさい。ううん、違うんです、暑いから、お昼ねしていただけです。ごめんなさい。やだ、わたしったら。」
妻は慌てて起き上がり、びっしょりとかいた汗を片手で勢いよくぬぐった。みるみる顔が照れて赤くなる。それを見て、少し安心した。本当に昼寝だったらしい。
シーツの端で彼女の汗をぬぐってやり、これから発てるかどうか尋ねた。
「…疲れているでしょう。明日でもなんとかなりますよ。」
すると彼女は首を振った。そしてベッドを降りると、大股に歩き、部屋の奥からすっかり準備のととのっている荷物を持って来た。そして、髪だけ簡単に整えると、「すぐに行きましょう」と言った。娘も同じ顔で、妻の隣に立った。
やる気まんまんの2人にちょっとお茶を一服する許可をいただき、ダジルのパブで一休みしたあと、出発した。
その日は森の入り口で一泊し、翌日森に入った。戻りのときは一人で半日で抜けた、その道のりの半分を、一日かけてゆっくりと歩き、夕暮れごろに例の遺跡に無事辿り着いた。予想に反して娘も妻も精神的にはかなり元気で、むしろ砂漠よりも「鬱蒼」のほうが好評なようすだった。
大丈夫ですよ、中、掃除しておきましたから、と言いながらパズルを1分ほどで解き、先に中に入って電気をつけた。遺跡の清潔なエントランスは妻には好評で、水のきれいな水道も彼女を喜ばせた。
妻が作ってくれた簡単な料理は温かく、味もよかった。
(暖色のフィルター…か。)
その通りだった。一人で見たときは薄暗いとしか感じなかった間接照明も、なんとなく「暖かい」と感じられた。
娘が眠ったので、電気を消した。それから妻と2人でカンテラの灯りを挟んで座り、妻が仕入れていたらしいお茶を、2人で飲んだ。久しぶりに彼女たちの傍らに戻り…やはり安らいだ。自分もこうして少しずつ弱くなって行くのだろうか…そんな不安を覚えた。そしていつかあのソイレントの管理人のように取り返しのつかない失策をなすのではないか…そんなことをぼんやり思ったりしていると。
今日はなんにもおっしゃらないのね、と妻がくすくす笑った。いつもは五月蝿いくらいなのに…と。
「あー…いえ、…ああ、そう、村のほうは手はずがつきましたよ。入り込めそうです。」
「そうですか。では村についたら、少しは落ち着きますね。」
「ええ、旅も一段落です。家も好きなトコ使って良いし、なんだったら建ててやるって。」
「田舎ではお医者様ってとても偉いですものね。この旅でとてもよくわかったわ。自分の夫がとても偉い人なんだってこと。」
「あっ、ひどいなあ。全然偉いと思ってくれてなかったんだ。停戦会談だって私が行ったし戦後処理だってがんばってたのにい〜。」
「だって偉い人ってもっと威張ってると思ってたから。だから偉い人めんどくさくて嫌いだったもの。でもたまには偉いけどいばっていない人もいるんだということがわかって、少し偉い人が好きになりました。」
…妻は非常に変わった価値観の持ち主で、いつも驚かされる。
「…ところでここ、だれか住んでいたんですね。最近の人が。」
「…そうみたいですね。」
妻はこちらを見て、言った。
「…大変だったのね、お掃除。…だから一緒に行くって言ったのに。」
ドキっとした。…見すかされていたらしい。
仕方なくハハハと笑った。
「いや、大丈夫です。ええ。ぜんぜんです。はい。」
そしてその自分の態度が、まるで自分から産後の体調を聞かれたときの妻にそっくりだと思い、これはいけないと思った。
しかし何をどう話したらいいのだろろう。勿論妻がいてくれたら心は安らいだだろう。けれどもあんなものを妻や娘の目に触れさせるのは絶対に嫌だったし…それに、あの頭痛を、自分以外の誰かが理解できるはずがなかった。…理解してもらいたくもない。あれは自分の地獄だ。だれもつれていくわけにはいかない。妻や娘なら、むしろなおさらだった。
でも、なんとか、断片だけでも、話せないだろうか?あまり怖くならないように。死体がここにあったことなどははしょって。
「…ええと…そうじゃなくて…。なんだかユイの顔みたらほっとしちゃったんですよ。それだけです。…元気ないですか、わたし。」
「…元気ないです。」
「…そうですか。…ねえユイ、怪談好きですか。」
すると妻は目をきらきらさせてうなづいた。
「じゃあ…ええと、よくサスペンスもののドラマとかであるでしょ、恋人が自分のもとを去って行きそうになって…殺してしまうって話。ああいうのどう思います?」
「…突然何を言い出すのかと思ったら…」
妻は呆れたような顔で言った。
「…そうね、そんなふうに…世界にその人がただ一人しかいないような…その人と自分のことだけしか考えられないような…そういう生き方しかできないのは、…とてもなんていうかこう…残念なことだと思います。」
「…残念ですよね。」
「ええ、とても。」
「…まして殺したあと自分はウェルスになっちゃったりして。」
「…」
妻は思わず黙った。
そして言った。
「…それはとても残念な人生だったと思うわ。」
「…残念ですよね。…いや、燃やしておきました。」
そう言うと、妻は手を伸ばして頬のあたりを撫でてくれた。
「…可哀想にヒュウガ。…お父さんなんて割に合わないわ。あなたもお母さんになりなさい。ホテルでお茶を飲んだりしていればいいんだら。」
…まったく、変なことを考え付く妻だと思う。それに自分だってお茶だけしていたわけでもあるまいし、お母さんのほうがよほど大変なときだってあるではないか、だいたいお産のあとずっと戦えなくなったりしたらきっと自分だったら「呑んだくれ」一直線だ…とは思ったものの、妻の大真面目な慰めに、つい笑った。
「…じゃ今度は私が産むので、ユイが下見やって下さいね。」
「ええ。まかせてください。ウェルスなんか粉々に蹴り砕きますから。」
「陛下産休とか育休下さるかな…」
「くれなかったらやめちゃえばいいわ。わたしもやめちゃったもの。」
「そうですよね!」
流石にひどすぎる理屈だったので、2人、声を殺して笑いころげた。*** それから3年、森のそばの村の裏山で家族と暮らした。
山の空気は澄んでいて星は美しく、美味しい水と新鮮な食べ物を食べて、娘もすくすくと育った。
3年が過ぎて再び旅が始ったとき、妻や娘は実家に預ける以外なかった。自分も生きて帰ることのできる保証はなかった。…世界の終わりへと続く旅だった。
絶望にうちひしがれる廃虚となった村の出口で、妻はまるで買出しに送りだすときのように、行ってらっしゃい、とだけ夫に言った。
無口な娘は、森の見える丘に立って、父親の背中をいつまでも見送った。
2002/08/12
8/13改稿書いてて思いました。わたしやっぱし男女カップル鬼門だわ...汗。塔でバルマル書いたときも死ぬかと思ったけど、これもカナリしんどかったです...大汗笑。しかも仕上がりはかなりレズビアンのかほり...汗。でもユイはほんのり好きです。ミァンとユイでなんかかけないだろうか。(笑)。