まだ自分の足だけを頼りにイグニスの砂漠を歩いていたころ、突然雨に降られたことがある。
 砂のなかに何かがぽとりとおちてきたとき、初めは虫かと思った。
 しかしやがて次々に雨粒が落ち始めて、砂漠に皮膚病のような模様を描き始めたとき、やっと何がおこっているか把握することができた。
 驚いた。立ち止まり、空を見上げて言った。
「雨だよ、先生…」
 シタンはフェイに言われるまでもなかったらしい。聞いているのかいないのか、ぶつぶつとこう言った。
「まずいな、山際まで戻れればいいんですが…ダジルまで急いだほうが早いかもしれない…」
 しかしそれを聞いてもフェイはまだぼんやりと天をあおぎ、自分の驚きをシタンに向かってくり返した。
「砂漠で雨なんて…すごいな。降るんだ、雨。」
 すると、シタンが言った。
「喜んでいる場合ではないです。…急いで西の方へ行ってみましょう。とにかくこの道は危険です。」
 歩きやすい道を外れて、シタンが砂を漕ぐような勢いで砂丘を登り始めたので、フェイは不審に思って尋ねた。
「待ってくれよ先生、砂丘歩きにくいし…少し待って雨をやりすごしたほうが…なんだか雨足も強くなってきたし…」
「だから急ぐんですよ。」
 シタンは引き返してきてフェイの手をぐいとつかむと、そのまま急いで道を外れた。
 そうする間にも雨足はどんどん強くなり、雷も鳴り出した。とても砂漠とは思えない土砂降りとなり、あっというまにフェイもシタンもずぶぬれになった。
「先生 ! 前見えないよ ! 」
 声が雷鳴にかき消される。話すために開いた口に、顔を伝った水がどっと流れ込んだ。
 シタンは歯を食いしばったまま答えず、強い力でフェイを抱えて、ぐいぐいと砂丘の上に引き摺りあげた。足をとられてよろけるフェイを、さらに次の砂丘へ引き摺っていく。
 地面を揺るがして雷が落ちた。フェイが肩を竦めると、シタンが怒鳴った。
「フェイ ! 歩いて! 」
「もう歩けないよ ! こんな雨 ! 目が開かない ! 」
 ふてくされてそう怒鳴り返すと、強引に向きを変えられた。向かい風だったのが逆向きになって、少し顔が楽になった。フェイは目をこすって開いた。そして…見た。
「…先生…道が川に…」
 シタンは何もコメントしなかった。
 フェイが口をあけて呆然とその光景を見つめているうちに、川はみるみる増水した。温かい紅茶が砂糖を溶かすようななめらかさで、水流は砂をくずしていく。そしてあれよあれよというまに砂丘の一つを飲み込んだ。
「…急いで、フェイ。とにかく行けるだけ行きましょう。」
 シタンは再びフェイを引っ張って砂丘を登り始めた。
 しかし、間に合わないのは目に見えていた。二人が立ち止まっている間にも、川の流れは気紛れに変わってすぐそこの平地をすでに流れに変えてしまっていた。フェイは恐怖よりも疲労で泣き出しそうな気分になり、雨と風で目のあかない苛立ちが更にそれを煽った。
 (俺なんかいつどこで死んだってただの天罰だ…)
 例の投げやりな気持ちが蘇って、フェイはついに歩くのを止めた。フェイの頑強な抵抗にあって、シタンも止まらざるを得なかった。
「…どうせもう間に合わないよ、先生。」
 フェイは言った。すると、
「そんな絶望と向かい合う勇気があるなら、目をつぶって歩く事くらい何程のものだと言うのです。」
 シタンは静かだが激しい口調でそういってフェイの頭を抱いた。
 足下が崩れたのはそのときだった。 
「…先生っ!!」
 フェイは思わずシタンにしがみつき、二人は一気に急流に飲み込まれた。
 か弱い乙女なら気絶しているうちに王子様が助けてくれるのだろうが、フェイはその濁流の色を今でもはっきりと思い出す事ができる。しこたま水を飲みながら大変な距離を流された。意識もあるし足も着く深さだったが、流れの勢いが一切の抵抗を許さなかった。流れにもみくちゃにされながら、くり返し足をすくわれ、川床に叩き付けられ、体中が軋んだ。とても歩くことなどできなかったし、自分が右に流されているのか左に流されているのかすらわからなかった。先生を放しちゃ駄目だ、…それしか考えられなかった。
 しばらくしてどこかに流れ着いた時、豪雨の地域から外れた、優しい小雨の中に二人はいた。何とあのシタンが、フェイの腕の中で気絶していた。…おそらくフェイがかじりついていたので、息を吸う自由がきかなかったのだろう。
「せ…先生ッ!!」
 フェイは慌ててシタンを揺さぶり、腹を押したり裏返したりたりして水をはかせた。泥水をさんざん吐いたあと、シタンはようやく意識を取り戻した。
「…ああ、生きてましたね…」
 ぽつりと呟くと、泥水で汚れた目を擦りながら…いつのまにしまっていたのか…懐から眼鏡を取り出し、いつものようにかけた。
 川づたいに歩いているうち海岸へ出た。やがて雨は上がって空は青青と澄み渡った。漁師らしき民家をみつけて頼ってみると、いたく同情されて、内儀さんが服を洗ってくれた。温泉がわいているから服が乾くまで漬かって来たら、と薦められ、二人は借り物の単衣を着てそこへ行った。
 温泉は海に湧いた塩泉で、岩一つ向こうには波が押し寄せていた。いい景色で、くり返す波音が心を弛緩させた。口数の少なくなっているシタンの気怠い横顔を見ているうちに、フェイは自分がひどく我侭だった気がしてきて、先生…と小声で呼びかけた。こちらに顔を向けたシタンに「ごめんね」と小さい声で言うと、シタンは不思議と優しい顔になり、手をのばして、フェイの顔に残った泥をそっとぬぐってくれた。
 ぬるい湯にだらだらと浸かるうち、ゆっくりと陽がおちてきた。フェイは疲れた目をオレンジ色の夕日から背け、眠りこみそうに傾いているシタンの首筋などに向けた。
「先生、そっちへ行ってもいい?」
 シタンは疲れた顔で笑った。そして気怠そうな声で尋ねた。
「…今日…怖かったですか?」
 フェイは少し考えた。不思議と、恐怖感は残っていなかった。強いて言えば…
「…先生が死んじゃったかと思ったときが怖かった。」
…といったところか。すると、
「…すみません。」
 シタンが眉をハの字にして情けない顔で詫びた。フェイはびっくりして、慌ててバシャバシャ近付いてシタンに抱き着いた。
「先生が謝るのは変だよ。」
 勇気という言葉に、この雨の日のことをいつも思い出す。
 …服を受け取って礼を言い、海岸伝いに南下していくとダジルの街に出た。結局首尾よく近道したと知ったのは、随分あとになってからのことである。


長いこと絹さんのサイトに置いていただいていたものです。先日お申し出があってリンクを外しましたので、置くことにいたします。

2001/9/11若干改稿いたしました。
2004/11/29今読むとまあまあだな。 

19ra.


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