夕暮れ


 世界は地獄と化した…人はそう言ったが、そのころフェイはその荒涼とした世界が、時々ひどく美しく思えることがあった。
 シタンの横顔もまた、そのころが一番美しかったように思う。
 ソラリス以来、「先生」は無駄に笑わなくなった。天の視座から絶望の限りを見尽くし、そしていつも決してあきらめることなく戦い続けてきた暗色の瞳は、新たな惨事も静かに見つめ、徒に嘆くこともなく…冷淡なほどに穏やかだった。
 ああ、これが本来のこの人なのかと思い…それまで彼がどれほど無理して自分を支えてくれていたのかが少しわかった気がした。…皮肉にも。
 裏切られたという思いがないわけでは決してない。ただ、裏切らざるをえない理由がこの人にもあったのだと…まるでいい子のように自分に言い聞かせただけだ。
 そうしないと、立ちゆかない。何もかもが。
 この人が必要なのだ。
「…ベタベタしすぎだったんだよ、お前。端で見てて恥ずかしかったぜ。今くらいでちょうどいいってもんよ。」
 …「シグママバルト」なんかに言われたくないのだが、エリイに無言でうなづかれると、返す言葉はなかった。こういうときだけは徒党を組むこの二人だが、案外言うことは正しいのかもしれない。
「先生なんかシグに預けとけ。勝手に二人でなんか企ませときゃちょうどいいんだよ。」
 こうした一見嫌がらせとしか思えない慰めを色々言ってくれるところを見ると、バルトも何かしらあのママに思うところがあるのかもしれなかった。しかしフェイとしては、とてもじゃないが、聞くに耐えなかった。
 高台の岩場にシタンは腕を組んで立っていた。遠くを見つめるシタンの背筋はいつも潔くのびている。
 3年かけて培った二人の呼吸は悲しい程に健在で、近付くフェイの気配を疑うこともなく、従って振り返ることもなく、シタンは言った。
「…良いお天気ですね…すごい景色です…」
 フェイは当たり前のようにその足下に座る。
「…何が見えるんだい、先生…」
 シタンは少し口をつぐんだ。
 風が二人に吹き付ける。
 錆びた世界の終末の風であるはずなのに、それは不思議と心地よい。…シタンの甘い声のように。
「…神々の世界で悲劇があって…。真実を映す大きな鏡がこなごなに割れてしまったのです。」
 フェイはシタンを見上げる。
 頤が女優みたいだ、と思う。
「その破片はばらばらに散らばって…人間の心の中に一つづつ入り込んでしまったのだそうです。その破片が真実を映すとき、人の心は痛むのだそうですよ…」
 シタンの言うことは大抵よくわからない。…わからないけれども、いつでも胸の奥の何かに触る。
「…真実が映るなら、嘆くことはないよ。…それを拠り所に生きればいいんだ。」
 フェイは静かに言った。
「…本当にそう思うのですか?今でも。」
「他にどうすればいい?」
 シタンは少し笑った。相変らずだなあ、貴方は…。そう言いたそうに見えた。
「神々がその鏡を、今、回収しようというのです。散らばってしまった神性を、人間をすりつぶし、撹拌し、遠心分離させ…そのかけらを取り戻そうとしているのです。…それがこの景色なのですよ。在るべきところへ在るべきものが帰ってゆく。真実は真実へ…神性は神性へ。…では人間は?どこへゆくのですか?」
 …すりつぶし…撹拌し…。フェイは眉をひそめた。
「…残り滓はソイレントで缶詰めかい…?」
「それならまだましですよ、誰かが食べて生きてゆくのなら。…フェイ、神は人間を愛していないのです。神が案じているのは自分のかけらなのであって…我々はそれを隠し持つ単なる厄介な入れ物なのですよ…彼等にとってはね…」
「勝手に厄介者にされても困るよ…好きで厄介に生まれたわけじやないし…」
「もちろんですとも。」
 シタンは大きな声で言った。フェイはびっくりして顔を上げた。
「死ねと言われたからと言って死んでやる必要などありません。われわれの命はわれわれのものです。勝手に管理不届行きで鏡カチ割った阿呆が何をえらそうに ! 神ですって?! あつかましい!…けれどそれが…真実というものらしいのですよ…フェイ…。嘆かわしいことです…ええ…本当に…」
 シタンは腕を解くと、寂しそうに笑った。
「…神様も案外人間くさいですよね…ほんと、頼りになりません…ええ、まったくです…。誰も助けてはくれません。がんばらなくてはね…私達…。」
 言い終えるとフェイに目を寄越して、昔のように笑った。…少し困ったみたいに、優しく。
「…まだ行かないでくれよ先生…もう少しだけでいいから…」
 立ち去ろうとしたシタンをフェイは呼び止めた。
 シタンは一瞬足を止めたが、すぐに苦笑して言った。
「…私なんかといて楽しいのですか。」
 …ひどいことを言う。
「…苦しいよ…。でも側に居たい。」
「それは惰性的な愛着に過ぎないと思います。あなたの心に反しているから苦しいのではないのですか? 良く無い習慣ならやめてしまったほうがいいですよ。」
 …なんでこんなひどいことを言われなければならないのだろう?
「惰性だって愛着だっていいよ! 」
「フェイ、私毛布じゃないのですよ。」
「俺だって庭で燃やせるぬいぐるみじゃない! 」
 フェイが立ち上がると、シタンはびっくりしたような顔をした。
「…フェイ…」
「どうすればいいんだよ…。あんたなんかと思ったって…思ったって…どうしようもない…あんたの声が聞こえただけで俺はほっとしちまうし…一緒にいれば向い風だって気持ちいいのに…どうしろっていうんだよ。あんたずるいよ…。」
「…。」
「知っててやったくせに! 俺があんたを必要としてるって、知っててやったくせに、何で追っ払おうとするんだよ! ああそうだよ、俺にはあんたが必要だよ!! 」
「…フェイ…」
 何か言おうと口を開いたものの、フェイがみるみる涙ぐむのを見て、シタンは口を開けたまま黙ってしまった。
 目に盛り上がった涙がこぼれおちるその瞬間に、シタンはふわっ…とフェイを胸に抱いた。
 以前と少しも変わらない強く優しい手。温かい胸。なぜかとても懐かしい匂い。
「…嬉しいです、ありがとうフェイ。私はだれよりも貴方に必要とされたいです。」
 その甘い声。
 フェイはシタンの唇を探り当てて自分の唇とあわせた。乾いた温かい感触。…忘れたことはない。いつだって。
 シタンがゆっくり背中を撫でてくれた。
 フェイの胸の中で尖っていた何かが、氷が解けるように丸くなっていく。
「大丈夫、心配しなくていいです。私いつでも貴方の後ろに、あなたと同じ方を向いて立っています。だから走っていきなさい、どこへでも。あなたが私を許さなくても、私はちゃんとついて行きますから…神も真実も乗り越えて、一緒に行きましょう、朝日の見える場所へ。そこでは神も無い代わり、はた迷惑な神が私達に落として行った馬鹿げた痛みもまた、無くなっているはずですから…」
 その訳の分からない慰めに、フェイは泣きながら少し笑った。
「…許してるよ…とっくに…」
「…無理はしなくていいですよ。」
「…許してるよ…でなきゃあんた生きてるもんか。」
 シタンも笑った。
「それもそうかもしれません。」
 そっと身体を離しても、フェイの胸には甘い温もりが残った。
 二人はもう一度眼下にひろがる世界に目を向けた。
 風が吹いて、二人の長い髪を後ろへと流す。
 荒涼とした大地は夕暮れの陽光に赤く染まり、太陽は終末の世界の地平線に沈もうとしていた。
 それでも世界は美しく見えた。
 思えば二人一緒のときは、いつでもそうだった。


19ra.

キリリクに応えて書いたものですが、まったくHもスイートもないのでボツにしました。でも何ヶ月も書いてて消すのは悔しいのでアップします。

2000/10/15

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