村からは案外と海が近かった。
退屈よりは憂鬱を持て余すような日にはよく行ったものだ。波のよせる磯の岩に腰掛けて、汐が満ちていくのをずっと見るのだ。
振仰げば山の上には知人の家がみえた。天気によっては彼の自慢の望遠鏡なのだろうか、屋根のほうがキラリとひかることもあった。
その日は波が荒く、天気は悪く、…気分も最悪で、岩場に累々とうちよせられた藻くずのにおいが嫌で、嫌なのに離れることもできなくて…という悪循環に陥っていた。強風にめくるめく灰色の雲がなぜかひどく美しく見え、そのまま山盛りの濡れた海藻の中に倒れて、満ち潮の時間がきたら一緒に沖に流されたいと…体のどこかで切実に願っている自分が無気味で不快で…砕けた波の細かい雫に濡れながら、体が固まったように動かなかった。
「あら、フェイじゃありませんか。」
唐突にほのぼのと声をかけられて、フェイはやっと目を上げた。目眩がした。
「…先生…?どうしたんだこんなところに…」
「貰いもののネギを見てたら貝が食べたくなって。」
シタンらしい物数奇な台詞に、フェイは少し笑った。この男たいそうなインテリなのだが、ときどき馬鹿みたいなことを言う。貝がどうのと言うわりに、ナイフも入れ物も持っていない。…うそつき、なのだ。
フェイは岩から体を引き剥がし、別の岩に渡った。シタンの目が追ってくる。
「…こっちだよ。」
促すと、彼は見かけによらない身軽さでついてきた。
その岩には真っ黒な貝がみっしりと張り付いていた。小さいものが多いが、掌の半分ほどのものもまじっていた。
「…もっと大きいのは水にはいらないと。」
「詳しいですねえ。」
「…俺は本当によくそういう事情でここにくるからね。」
こんなこと、いつもなら黙っているのだが。
山の上に住んでいる医者は少し笑っただけだった。
フェイは懐からナイフを出し、岩にかたく張り付いている貝の隙間にざくざく突き立てた。
「…貸して、フェイ。刃を欠いてしまいますよ。」
やんわりと手をつかまれて、ナイフを取り上げられた。フェイの目線の先で、シタンは丁寧かつ正確な手つきで貝をこじりとった。
「…もって。」
とった貝をフェイにあずける。貝はひげねのようなもので岩にしがみついているのだが、その力は凄まじく強い。その硬い細い繊維を、ぶつぶつと切りつづけるシタンの手。…めまいがした。
「…先生、俺なんかキモチ悪い…」
「…日がな一日岩にへばりついているからですよ。」
それは順番が逆だ。
「…このくらいでいいでしょう。」
シタンはフェイを促すと、磯を離れた。
水から少し離れたところで、シタンはあたりの木屑や流木を拾い集めて火をつけた。そしてどこかから金網を持ってきた。
「…どしたの、それ。」
「…前きたとき拾ったんですよ。…あ、雨だ。消えちゃうかなあ。」
案じたほどの雨ではなく、風向きのおかげもあってか火は燃え続けた。金網に貝をのせて、二人は狭い岩陰で雨を避けながら待った。シタンの体温が腕のあたりにほんのりと温かく、フェイは少し眠くなった。
「…焼けたみたいですよ。」
少しうとうとしていたところを起こされて、細い木切れを渡された。フェイが眠っているあいだに先を細く削ったらしい。
開いて蝶の形になった黒い貝のオレンジ色の身を突いて食べながら、何の話に笑いあったのかは今ではもう覚えていない。
ネギと合わせて食べるんじゃなかったの?とからかったら、フェイと食べたほうがおいしいかと思って、とすましていたのは覚えている。
てゆーか俺を剥がしにきたんだろ本当は、と言ったら、またほのぼの笑っていた。