「いい旅行でしたね」
「…うん」
「また、行きましょうね?」
「……うん」
多少眠そうな声で、カーランは頷く。
窓の外を流れる風景は、徐々に都会の喧騒をまとっていく。
2泊3日のバカンスが終わろうとしていた。
***
障子越しに室内を白く染める光に誘われるように、カーランは布団を抜け出して窓へ近付いた。
月が中天に掛かっている。
真夏の夜の満月は、なんだか普段より明るい気がする。
窓を開けると、夏場とは思えない涼しい風に乗って、フクロウの声と気の早いコオロギの声が吹きこんでくる。
白い月の光に照らされて、夜闇は青く染まる。
空を行く雲は薄いグレー。
月光の下にさらけだされる自分の肌は、妖しいほどの白。まるで光のない世界に生きる動物の肌のようにつややかで、白くぬめって見える。
「…」
振り向いた先には日向が眠っていた。
ついさっきまで絡み合っていた布団の上だ。ようやく汗が引いてきたところだというのに、カーランはどうしてもこの光の下で日向の体を見てみたかった。
そっと傍まで近寄って体の下に腕を差し入れると、軽く眉を寄せて日向はうなり、煩わしそうに目を開けた。
「……なんです…?」
「すまん、ちょっと…寝ててもいいから」
自分の肩に体をもたせかけるようにして抱き上げ、まだ寝ぼけまなこの日向を窓辺の椅子に腰掛けさせて、両足をガラスのテーブルに乗せた。
「……カール?」
はだけた浴衣の衿から見える薄い胸の色に、カーランは鼓動を速くする。
陶器みたいな白。青みを帯びて、触れたら吸い付きそうな白。その肌に所々落ちている黒い影は、カーランの唇の跡だ。
緩んだ帯を解いて、カーランは日向の前袷を全部はだけた。彼の手首をそれぞれとらえて、自由を奪う。
「何…?」
体の前面をすっかり曝け出される格好になった日向は、多少戸惑った声を出した。
「…綺麗だろうとは思ってたんだが、やっぱり綺麗だ」
「…?」
独り言のように呟いて、カーランは日向の鎖骨に唇を落とした。
「あ…ん、や…」
日向は喉を反らせて甘い声を上げる。実際の所眠りたくて仕方ないのだが、さっきまで激しく反応していた名残なのか、体はいつもより敏感な反応を返す。
「や…駄目です、カール…もう寝ましょうって、さっき」
「もう1回したら寝る」
「って言って…1回で終わったためしなんか…無いじゃないですか…」
青い影を落として体を捩る日向の足の間に割り込み、カーランはガラステーブルに腰を下ろす。
手首をとらえたままで左右の胸を弄っていると、やがて日向の息遣いが変わる。それだけで、カーランは彼が行為を許したことを知る。
「も…どうしてそう、強引なんです…?カール…」
「今日はとりあえず月のせいだな」
「月…?ああ…綺麗ですね」
とらえていた手首をカーランが離すと、日向の腕がするりと背中に回った。
先に旅行に行きたいと言い出したのは日向だった。
「旅行?」
怪訝な顔で聞き返すカーランに、笑って頷く。
「ええ。涼しくて静かな所に2泊3日」
「…動物はどうするんだ」
「2泊くらいなら、ペットホテルに泊めればいいでしょう?」
「…行くにしても、予約なんかしてないぞ」
「もうチケット取って来ました。あとはカールがバイト休んでくれればオッケーです」
「……」
そんなわけで半ば強引に連れてこられた温泉宿は、どうも日向の馴染みらしかった。正確には日向の、というより日向の両親の馴染みだったらしいのだが、小さい頃は毎年のように連れて来られたのだと言っていた。
宿は落ち着いた和風旅館で、二人を玄関先に迎えでた女将は品のいい着物をしゃんと着こなしたベテランで、二人を客室まで案内した。
通された客室は当然のように和室。床の間には山水画がかかっていて、違い棚には小さな桔梗と白菊が生けてある。正面の窓際には籐の椅子が一対と、ガラステーブル。
窓の向こうの景色は緑深い山と、風に波打つ青い稲穂と、その向こうには駅から通りすぎてきた町並みが小さく見える。
荷物を置き、二人はひと休みしてから散歩に出かけた。
陽射しは強いが、木陰に入れば十分涼しい。
じわじわと降り注ぐ蝉の声と、足もとの乾いた砂利道。
歩きながら日向は懐かしそうに目を細めた。
「兄たちと毎日このへんを転げまわって遊んだの、覚えてます」
あっちに沢があって、とか、こっちの雑木林にはあけびのつるがあって、とか、日向は細かい場所までよく覚えていて、カーランを夕方まで連れて歩いた。
「…あ、あっ」
切ない声を上げて、日向はカーランの首にぎゅっと抱き付く。
しらじらと満ちる冷たい光の中で、体がひとつに繋がる。
テーブルに腰掛けたカーランの腰に跨るようにして、日向は顔をカーランの肩に埋めている。
「…日向」
「ぜぇったい…1回、だけ、ですよ…っ」
「わかったから…」
「ん…、あ」
くん、と喉を反らせる日向の首筋に、カーランは唇を寄せる。血管が青く浮き上がって見え、なんとなく吸血鬼にでもなった気がした。
「ね、カール…」
「ああ…?」
黒々と濡れた目で見つめられ、カーランはどきりと胸を鳴らす。
「なんで…起こしたんです?」
「…月が綺麗だった」
「…それで?」
「…この光の下で、おまえを見たかったから」
「……カールの助平」
詰るように呟いて、日向はカーランの唇に口づけた。
…眠ったのは明け方だった。
だというのに朝食の時間には空腹で目覚めたのだから、体内時計は侮れない。
部屋にある内湯で汗を流す。まだキスマークも鮮やかな体で大浴場に行くだけの度胸は日向にはない。せっかく露天風呂自慢の宿なのだが。キスマークを数えたら十数カ所は優にあった。
「……」
今日中に仕返ししてやる、と心に決めながら、日向は浴衣を替えて部屋に戻る。夏場で汗をかくからと、女将が二組浴衣を置いて行ってくれたのである。
布団のシーツと枕カバーをはがして、脱いだ浴衣と一緒に積んで、二人は朝食を食べに出かけた。
庭に面した二十畳ほどの広間にはいくつかテーブルが出されていた。二組の老夫婦がお茶を啜りながら談笑している以外、客はいない。
庭の方の仕切りは全部外されていて、外の風が直に室内に流れこんできている。
蝉の声、鳥の声が響き合う中で、庭の片隅に置かれたししおどしが規則的に上下しては、ほんの一瞬の静寂を作り出す。
普段の倍はありそうな豪勢な朝食を二人が食べている間に、二組の夫婦はそれぞれ出ていってしまい、彼らだけが残る形になった。
ゆっくり食後のお茶まで飲んで、席を立って部屋に戻ると、布団はすっかり押入れに収納されており、新しい浴衣が二組と、外行きの浴衣が置いてあった。
「ああ…そういえば花火大会があるって言ってましたっけ」
「近くでか?」
「いえ、町でやるらしいですよ。見物にはここの裏山がいいって、女将さんが。出かけましょうか、せっかくだから」
「そうだな」
でも今は眠いな、と言ってカーランは畳の上に転がる。
「牛になりますよ」
「それにはまず、胃が四つくらいないと駄目だろう…」
なんですかその屁理屈、と日向が笑っている間に、カーランは目を閉じてすっかり寝る体勢に入ってしまった。
…やがて寝息が聞こえてきた。
テーブル越しに覗くと、それはそれは気持ち良さそうに寝ているカーランの顔が見える。
「…」
日向は自分の荷物を引っ張り出してきて、カバンの中からビデオを取り出した。
三時間ほど経って、カーランが心地よく目を覚ますと、日向は「おはようございます」と満面の笑みを浮かべた。
「…うん」
目を擦りながら、何となく違和感を感じる。見れば、ちゃんと着ていたはずの浴衣が寝乱れて、帯が緩んでいる。
「日向…」
「はい?」
「今何時だ…?」
「そろそろ昼ですよ」
「ふうん…」
そんなに寝相悪かったかな、と首をひねりながら、カーランは浴室に入って行く。
日向はひとり微笑みながら、ビデオを巻き戻した。
夕暮れ時、ぽんぽんと軽い花火の音が届いた。
花火大会開催の合図だ。
早めの夕食を取り、二人は浴衣を着替えて裏の山に登った。
山と言うよりは丘であるが、日向は昔から「裏山」と呼んでいる。
頂へ続く砂利道には、お祭りの時に下げるような赤と白の提灯が吊り下げられていた。
コオロギの声がいくつか聞こえる、視界の開けた頂は、心地よい涼しい風が吹いていた。やはり裸電球がいくつか吊り下げられていて、たこやきの露店まで出ている。
三々五々と言った感じで見物客は固まっていて、都会の花火大会の見物会場のようにごちゃごちゃと人込みにはなっていない。
草の上に腰を下ろして、開始を待つ。
「わっ」
「どうかしました?」
「なんか飛び乗って…」
「あ、バッタだ。久しぶり」
無造作に青いバッタを捕まえる日向に、カーランは怪訝な顔を向ける。
「なんです?」
「…いや…そんなの気持ち悪くないか?」
「別になんでもないですよ?可愛いじゃないですか」
「可愛くない…」
「そうかなあ?」
捕まえた時と同じように、無造作にバッタを向こうの茂みに放り出した瞬間、周囲を照らしていた裸電球の明かりがふっと消えた。
「あ」
周囲が闇に包まれた瞬間、ドン、という音がして、目の前の空間いっぱいに大きな炎の花が開いた。
そこここから拍手が洩れる。
「やっぱり迫力ありますねえ」
「そうだな」
腹に響く音を立てて、極彩の花が次々に開く。開いては、上空の風に煽られて流れて行く。
花火を30分も見ていただろうか。
不意に風の向きが変わった。
涼しかった風が湿り気を帯び、ざあっと木々の梢を揺らした。
「…なんか、雨来そうですね」
「そうか?」
「だって雨の匂い、しません?」
「雨の匂い?」
「感じません?」
「さあ…」
「そうですか…」
そんなことを言っているうちに、ぱたり、と音がした。
何人かが空を見上げるのとほぼ同時に、ぱたり、ぱたりと音が続き、すぐに本降りになった。同時に轟音とともに、花火の真ん中を貫くように稲妻が走る。
こうなると花火どころではない。わあっと麓に向かって見物客は駆け出し、もちろん二人もそれに倣った。
砂利道を転がるように駆け下り宿に戻ると、もう雨宿りに入っている人が何人かいた。女将はずぶ濡れの二人を見ると風呂を勧めてくれ、タオルと浴衣を手渡した。だが、二人して全身キスマークがついている状態である。大浴場は謹んで辞退し、タオルだけ受けとって部屋に戻ることにした。すると女将はちょっとお待ちなさいと二人を引き止め、日向の手にスイカの乗ったトレーを乗せた。
「良く冷えてるから」
「どうも…」
そういえば、雨宿り客はほとんど雨足を見ながらスイカをしゃくっている。サービス品らしい。
部屋に戻って浴衣を着替え、濡れた髪をタオルで拭きながら、窓際に座る。
稲光を見ながらスイカをしゃくしゃくと食べる。
雨粒と轟音で窓ガラスが軽く震える。
「これはこれで綺麗だな」
「ええ」
と、ひときわ大きな轟音が響き渡り、ふっと部屋の明かりが消えた。
「…あれ」
「停電か」
室内を青白く照らし出すのは、時折空を貫く稲光だけ。
それ以外は闇に包まれていて、ふとカーランは腕を伸ばした。
「わ…なんです、カール?」
「いや、居るかなと思って」
「そりゃ居ますよ」
ほら、と日向も手を伸ばしてカーランの頬に触れた。
「…」
互いに顔を寄せかけて、日向はまだ手の中にスイカが残っていることに気づく。
「カール、まだスイカ残ってる」
「…ん?」
「きっと取りに来るから。停電もしてるし」
「ああ…」
じゃあ、といってカーランは手もとのスイカを指先で割った。
「ほら」
こつん、と顎に当たった。
「…ちょっと、カール。そこ口じゃないです」
「え?」
カーランの手首を掴んで、日向は指先のスイカをぱくんと口に入れる。そうしてから、日向も面白がって同じようにスイカを割って、カーランの口元…であろう場所に向けて腕を伸ばす。やわらかい感触がある。
「はずれ」
頬に当たったらしい。
何故だか二人して今度こそと息巻いて、何度も失敗する。
時折浮かび上がる互いの顔が、笑いながらもスイカまみれになっているのは分かっている。
とんとん、と引き戸が叩かれて、「すみません、明かりを…」と言う仲居さんの声が聞こえる。
「鍵開いてますから置いていって下さい」
日向は窓際からそう答えた。がらがらと戸が開く音を聞きながらもスイカのなすりあいをしていたのは、暗闇だったせいだろうか。
「失礼します」
部屋に通じる襖が開き、仲居さんが床に置いたのは古風なランプだった。
「失礼致します」
そう言ってな仲居さんが頭を下げた時、ジジジッと電灯の辺りで音がした。
突然に戻ってくる蛍光灯の明かり。
「…あら……まあ、今おしぼりお持ちしますね」
サービス品のスイカは8等分にしたものをスライスして出したはずなのに、何故か顔中スイカまみれにしている二十歳前の男二人を見た仲居さんは、置いたばかりのランプを手に、顔色ひとつ変えずに部屋を去った。
「…プロだな」
スイカまみれの指を舐めながら、カーランはぽそりと呟いた。
***
3日ぶりの主人との散歩に、ジェスはひどくご機嫌だった。駅を下り、犬猫を引き取っての家までの帰り道は、あの涼しさが恋しいほどの熱気に包まれていた。
「…日向」
「はい?」
「さっき、また行こうって言ったけど」
「…嫌ですか?」
「そうじゃなくて、俺が行ってもイイのか…あそこは」
「どうして?」
「どうしてってその…思い出の場所なんだろう」
「だから、行きたいんですよ。あなたと」
「?」
「仕切りなおしって言ったら怒られるかな…?でも、そんな気分なんですよ。あの場所で、思い出作りなおしたいなーって」
にっこりと笑って言う日向に、カーランは苦笑しながら頷いた。
…数日後、カーランは自分のあられもない寝姿が映ったビデオテープを見つけてあたふたするのだが、そのテープのタイトルがあの宿で泊まった部屋の名前と同じなことには気づかなかった。
了
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