カーランに電話が入ったのは、良く晴れた午後のことだった。
光は気圏に満ちて、乾いた空気は金木犀の香りを含んでいた。
夏ほどの眩しさはないかわりに鮮やかな色彩に溢れ、冬ほど厳しくはないがどこか鋭さを隠した季節。
電話の相手は、カーランがまだ施設にいた頃めいっぱい世話になった園長だった。カーランの買ったマンションの保証人をしてくれている関係で、今でも時々連絡がくる。
江戸っ子気質の老婦人の、電話ごしでもわかる明るさと闊達さに、カーランはいつも苦笑しながら、しかし嬉しそうに話をする。
だが、その日は少し勝手が違った。
「え?」と言ったきり、彼はしきりに頷くばかりで、金茶色の目にはとまどいが揺れている。日向は足元に寝そべったジェスの毛皮をブラッシングしていた。ジェスは黒毛のラブラドールだが、もしかしたらゴールデンの血が混じっているんじゃないかと思うくらいに毛足が長い。よって、ブラッシングもひと苦労だ。
ブラシにからみついた艶のある黒い毛を集めてゴミ箱に捨て、日向は目を上げた。
押し切られたような雰囲気で受話器を置いたカーランは、困惑を表情ににじませて、日向の隣に座った。
ジェスの首を抱えて裏返しながら、日向は尋ねた。
「先生、なんですって?」
「うん…人とあわなきゃいけなくなった」
「誰と?」
「施設にいた頃、援助してくれてた人」
「『足長おじさん』?」
「…そんなとこかな」
ため息混じりに肯定するカーランを横目で見ながら、日向はジェスのお腹のあたりにブラシを入れていた。ここが一番ふかふかしていて気持ちがいいのだが、滅多なことでは触らせてもらえないので、堪能するようにブラシをかける。
「嫌な人なんですか?」
「知らない。会ったこと、ないんだ」
「一度も?」
「ああ。俺は会いたかったんだけど、向こうが忙しいとかで会えずにいたから…今更何の用だろうと思ってさ」
「ふうん…」
日向はジェスの横腹をぽんとたたいて、ブラッシングが終わったことを彼に伝えた。面倒くさそうに立ち上がったジェスは、邪魔したなといった様子で自分の定位置まで戻っていく。それを見送って、日向はぱっと顔を上げた。
「で?いつ行くんですか?」
「週末。土曜の三時にグラン・ユーゲンホテルのロビー」
「一緒に行きましょうか?」
「いや…先生も来るし…大丈夫だ」
「そうですかー?」
茶化すように顔を覗き込む日向に、カーランは軽く口元を綻ばせる。
「行けるよ、馬鹿。子供じゃないんだから」
「ならいいですけど。私は心配だからついてっちゃおうっと」
「…なら聞くなよ」
「勝手についてくだけですもん。同席はしないで、こっそり見てます」
そう言って笑う日向を、カーランは軽く小突いた。週末。
秋空が女心に例えられるだけのことはあって、「週末は秋晴れ」の予報は見事に裏切られた。
朝から絶え間無く降り続いている雨は止む気配すらなく、地上を目指す雨粒はホテルの大きな窓に水面のような波紋を描き出していた。
到着までにびしょ濡れになったカーランは、日向が持って来た替えのスラックスを履き替え、化粧室の鏡の前にいた。
湿った金髪がどことなく重い感じがする。
慣れないスーツ姿のせいか、鏡の中の自分は自分でないような気がする。
深い紫紺のツイードで仕立てたスーツはセミオーダーだけあって、カーランのがっしりした体躯によく馴染んでいるのだが、本人はどうにも落ち付かないらしい。
気難しい顔でぼんやり立っていると、鏡の中にひょこりと日向が姿を見せた。
「大丈夫ですよ、いい男ですから。…あ、でもネクタイ曲がってる」
そう言ってネクタイを直す日向は、どうせ同席しないからといってごく普通のシャツとパンツにジャケットを羽織っただけの格好だ。
「緊張してます?」
「…多少」
言葉よりはだいぶ緊張しているらしい。表情は固いし、目は泳いでいるし。
日向は苦笑しながらカーランの強張った頬を軽く撫で、他に人気がないのを視線だけで確認すると、ちょっと背伸びをしてキスをした。
「ヒュ…」
うろたえるカーランに笑いかけると、日向はカーランの背をぽんとたたいた。
「いつもどおりで大丈夫ですよ。いってらっしゃい、カール」
日向に送り出され、カーランは化粧室を出た。
ロビーに待ち人の姿はなかったが、同席する園長はもう来ていた。
振り返ったが日向の姿はない。
日向も園長とは何度か会っている。彼女の気性からして、見つかったら同席させられかねないから逃げますね、と言っていたのだけあって、さっさと姿を消したようだ。緊張しているのは園長も同じらしく、しきりにカーランに話し掛ける。
「…そう、なんていったかしらね、なんとかっていう会社の理事長さんらしいのよ」
「…先生、ナントカって会社じゃわかりませんよ」
「そうねえ、でも忘れちゃったのよ。年取るとこれだからねえ。奥様とは何度かお会いしたんだけど。穏やかで優しくていい方だったわ」
ほとんど無意味な言葉の羅列を聞きながら、カーランは周囲を目で見渡した。
そして彼は、近づいてくる女性に気づいた。
一瞬見惚れるほどの美貌にも、歩いてくる動作にも、寸分たりとも隙がない。おかげで、チャコールグレーのスーツが戦闘服のように見えた。
彼女はぴたりとふたりの前で立ち止まり、軽く体を折って口を開いた。
その動きもどこか訓練されたもののように見える。
「失礼ですが、カーラン・ラムサス様とソフィア園の園長先生でらっしゃいますか?」
「あっ、はい、そうです」
園長はあわてたように立ち上がり、深く頭を下げた。ならってカーランも立ち上がり、軽く頭を下げた。
「初めてお目にかかります。この度はご足労いただきまして、ありがとうございました」
挨拶の言葉にも隙がない。販売員の鑑のような最敬礼の後、女性は名刺を差し出した。
『アラボトコーポレーション 日本支部秘書室室長 不破美和』
何の会社なのか、カーランはよく知らなかった。
日本支部ということは、本部はどこか海外にあるのだろうか。名刺を見ていると、女性が再び頭を下げた。
「不破と申します。申し訳有りませんが、理事は所用で少々遅れるとのことですので、わたくしが代理で参りました」
「あら、それはまあ、ごくろうさまです」
彼女は会釈だけすると園長とカーランに座るよう促し、自分も向かいの席に座った。「早速なのですがラムサス様、いくつか確認させていただいて宜しいですか」
「どうぞ」
「今お仕事についてらっしゃいますか」
「…新聞配達を」
「お住まいは賃貸ですか」
「いや、自分名義で」
「失礼ですがご結婚は」
「まだです」
「わかりました。ありがとうございます」
美和はそう言うと、持ってきたカバンの中から書類を何通か出してテーブルに広げた。
「これは当社の広報パンフレットになります。大まかな部分しか出ておりませんが、後ほどでも結構ですのでご覧ください」
「ところで一体、今日はどういう用件なんですか」
「わたくしの口から詳しい説明はお聞かせできませんが、理事はあなた様を日本支部にお迎えしたい意向で、本日の席を設けさせて頂きました」
「俺を?…高校もろくに出てないのにか?」
「日本の高校と大学の学位を取る期間があれば、アメリカでMBAを取得なさった方が有益です」
「アメリカ?」
「はい。我が社は本部をアメリカに置いておりますので」
「…初めて会った人間をいきなり引き抜きたいなんて、そんなに人手不足なのか?」
「お会いするのは初めてですが、理事はあなた様がどのように育ってこられたか、十分知っていると申しておりました」
「そんなのは俺が施設にいる間の話だろう。あれから五年以上経ってる」
カーランは吐き捨てるように言って、背をソファに預けた。
その隣で、園長が当惑したようにカーランと美和を見比べた。向かいの美和は、眉ひとつ動かしていない。
「…カール」
「先生、申し訳ないけれど、この話俺は受けられない」
「でも」
園長が口を開き掛けた時、美和が小さく「理事」と呟いた。
「…君は私の投資を無駄にするつもりかね?」
低い艶のある声がカーランの頭上から響いた。
彼が声の主を振り仰ぐと、射竦めるような藍色の双眸とぶつかった。
五十代前半くらいだろうか。くすんだ金髪と、ひどく威圧的な眼差し。
身を包んでいるのは素人目にも高価だとわかるほど、仕立ての良い三つ揃えのダークスーツ。
その見知らぬ男の雰囲気に飲まれたように、カーランは一瞬戸惑った。「…投資ですって?」
カーランが戸惑っている間に、意外にも園長が尋ねた。
「そうですよ、園長。私が単なる慈善事業で資金援助をしていたとでも?」
「奥様はそう仰いましたわ。身寄りのない子供達に、特に二親に恵まれなかったカーランには寂しい思いをさせないようにと、これはそのためのお金だと」
「…妻はそういう意向だったかもしれないが、私は自分のため以外に金を使わない主義でしてね。最初から事業展開の一環として、資金提供をしてきたのですよ」
「私は子供達を商売道具にした覚えはありません!」
園長はぴしゃりと言い切った。
その剣幕に、威圧的な眼差しの男は苦笑する。
「商売道具とは人聞きが悪い。親が子供を育てる時には必ず思うでしょう。良い教育を受けさせ、一流の会社に。私のしていることはそれと同じですよ。…それに、今あなたの育てた子供達の中で成年に達しながらも、定職に就いていないのはこのカーラン君だけのようでしたからね。彼のためにも悪い話ではないと思いますが?」
「親は子供に先行投資するなどとは言いませんわ」
園長の言葉に軽く肩をすくめた男の眼差しが、再びカーランに移った。値踏みでもされているような不快感を感じ、カーランは眉を寄せる。
施設に居た頃、小さなクレヨンや画用紙の一枚だって、これはあなたたちを大事に思っている人からの贈り物なのだと言われた。だからずっと長い間、一度でも会えたら「ありがとう」と言いたかったはずなのに、今は欠片ほども感謝の念は沸き上がってこない。
かわりに、体の底の方がしんと冷えていくのを感じていた。「…お断りします。俺は今の生活を変えたくもないし、変えるつもりもない」
「君はまだ若い。だが今ではなく十年先、二十年先を考えてみたまえ。安定した収入を得て働けるのはどっちだと思う?私の年まで、新聞配達をして暮らすつもりか?」
「…そんなことあんたには関係ない。確かに施設に援助してくれてたことには感謝するけど…そのことで俺の人生をあんたに縛る権利は無い」
「若者らしい言い草だな。…まあいい。一週間猶予をやろう。良く考えたまえ、あとで後悔しないようにな。戻るぞ、不破」
「はい」
美和は立ち上がり、「では連絡はわたくし宛てにお願い致します」と言って一礼し、理事の後を追いかけた。
「カール」
「なんですか、先生」
「…あんな人でも、会社は一流よ」
「わかってます。でもいいです。…俺、帰りますから」
カーランはソファから立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。
エントランスに向かう彼を見送り、園長はテーブルの上に乗ったままのパンフレットを手に取った。
「…あの奥様のダンナ様だなんて、嘘みたい」
表紙を開くとたった今見たばかりの、名前も知らない男の写真があった。
カレルレン・デューン。
写真の眼差しも、実物と同じように深く沈んだ色をしていた。