柔らかなソファに寝転がったまま、彼は天井をぼんやり見上げていた。 土曜の午後2時。
冬の午後の薄い陽射しが、室内を照らしている。
床暖房で温かくぬるんでいる部屋の空気が、いやに寂しい。 先々週までの週末は、一人ではなかった。他人が見たらどう見ても「いちゃついている」としか見えない様子で、じゃれあって過ごした。
だが、一本の電話で状況は変わり、顔色を変えて部屋を出ていく「恋人」を、彼はどうすることも出来ずに見送るより無かった。
ニャァ、と声がして、腹の上に軽い重さがかかる。尻尾をぴんと立てたシャム猫が、軽く首を傾げて青い瞳を彼に向ける。
今日もあいつは来ないのか、と問い掛けているように見えた。
「…来ないよ」
なめらかな毛並みを撫でながら、彼はそう呟いた。
首輪の鈴が澄んだ音を立てる。
ここ2週間、連絡が一度も入らない。
声が聞きたい。
抱き締めたい。
だが、もはやそれは彼の一方的な希望でしかなかった。…連続放火だったのだと言う。
都会の冬では珍しくもなんとも無い、事件。
その冬の未明、相次ぐ119番コールに消防車と救急車が出払った後、彼の家は炎を上げた。
近隣でも有名な由緒ある木造の家屋が全焼し、9名の遺体が発見された。
すでに独立していた長兄と次兄、そして九男坊だけが生き残った。
日向はカーランの家に泊まっていたおかげで、生き残った。
しかし、それだからこそ…日向が傷ついているのではないかとカーランは思う。
だからといって、何が出来るかなど考えても思い付かず…結局2週間、待ちつづけている。
来ない。
そう言葉に出して言ってしまったせいだろうか。
不意に、ひどく悲しくなった。 目頭が熱くなって、鼻と喉の奥が妙に熱く痛くなる。
金茶色の双眸から涙が溢れ出したのは、すぐだった。
泣き方を知らないのか、カーランは肩を震わせて、声も上げずにぽろぽろと涙だけを流した。室内は2週間前から散らかる一方だ。
やりきれない思いを物に当たって無闇に投げ付けるだけ投げても、片付ける気力がない。
彼と同居する動物達は、ここ数日のそんなカーランに困惑しているように見えた。しかし、それなりに主人との付き合い方を把握しているのか、荒れている時のカーランには近寄ってはこない。今みたいに打ちひしがれているくらいの時なら、ご挨拶程度に体を寄せてきたりするけれど。日向に出会ったのは半年前。梅雨もそろそろ明けるかと言う時期。
カーランは新聞配達をしている。始めたのは純粋に生活費を稼ぎ出すためだ。
蒸し暑い雨の日、彼はちょっとした不注意で一件の家に新聞を入れ忘れた。
電話で連絡が来て、あわてて行った先は、配達区域でも一番か二番の大きさのお屋敷。出てきたのは、学校に行く仕度をし終えた日向だった。
一目見て、日向はカーランに声を掛けた。どうやら再会だったようなのだが、カーランに日向の記憶はあいにく無かった。
が、それ以降、日向は毎日朝、雨でも風でも新聞を受け取りに玄関先に出ているようになった。そんなふうに懐いてくる少年に戸惑いながらも、カーランが振り払えるわけも無く。
そしてその頃カーランは宝くじで1等賞金を手に入れ、町内で1番眺めの良い部屋…30階建ての最上階…を買い上げていて、弱冠18かそこらで自分名義の家を持っていた。
遊び場に飢えている年頃の彼らが、週末だけ泊りがけで会うような関係になるまで、そう時間はかからなかった。
その「遊び」を仕掛けたのは日向だった。思いついたようにカーランに抱きついて唇を合わせた。その感触の思いがけない心地よさに一瞬真顔になりながらも、すぐに理性の箍を外した。勿論相手が同性であることを承知の上で、互いの体を貪るように激しく抱き合い、唇を合わせて性急に体を繋いだ。
気持ち良かった、のだ。スキとかキライとか、感情は後でいくらでも付け足せるから、こう言う場合どんな言葉も適当ではない。
多少痛い思いもしながら、ひっきりなしに戯れているうちに、だんだん相手の癖が見えてくる。鉄面皮みたいに言われるカーランの表情を、日向は正確に読み取るようになったし、カーランは日向が隠したがっている感情を何となく汲み取れるようになった。
動機やきっかけや順番はどうあれ、そう言う意味では彼らは確かに「恋人」だった。日向が居なくなって、カーランは何か酷い喪失感を覚えていた。
体の在り処を確かめるように愛撫されて抱かれた記憶も、衝動に任せて抱いた記憶も確かに自分のものなのに、違う他人のもののようで。
最初から無かったのだと思い込もうにも、心がついていかない。
一度知ってしまった温もりを、声を、体が忘れようとしない。
「……ッ!」
思うに任せない感情に、カーランは酷く苛立った。
そのくすぶるような感情と体の熱は、カーランの深い場所で蓄積されているようだった。
日向に連絡をとらないのは、それも理由だった。
話をしたら、会ったら、自分が何か酷いことをしてしまうような気がしたのだ。
ただでさえ打ちのめされているであろう日向を、更に傷つけるような気がして。カーランに両親は居ない。わからないまま、この年になってしまった。
実感が湧かないせいか、親というものに対しての意識が薄い。 意識自体が希薄だから、反感も持たなければ思慕もない。親を亡くした日向が今どんな気持ちでいるか、それ自体はわからなかったが、自分と同じような喪失感を覚えているのだろうとは察しがついた。
「…」
ひとりで抱え込んだジレンマに押し潰される気がして、カーランは体の向きを変えた。
玄関先でチャイムが鳴ったが、それにも出ない。
2回目。
3回目。
ゆったりと立ち上がった黒毛のレトリバーが、玄関まで出ていって低い声で鳴く。
…10回鳴って、チャイムは途切れた。しかし、まだ吠え声は止まない。
「…うるさい」
怒鳴るでもなく呟いているところに、電話が鳴る。
今度は起き上がって、カーランが取ろうか取るまいか迷っている間に、電話は留守電に切り替わった。『…カール…?』
電話の向こうの声が識別できた途端、カーランは受話器を取った。
「日向…!?」
『なんだ…居るんじゃないですか…』
ほっとしたような声に、カーランは言葉を見失う。
『…玄関、開けてくれませんか?』
「え…」
跳ね起きるようにカーランは立ち上がり、受話器を放り投げて玄関に向かった。ようやく出てきた主人に吠えるのをやめた彼は「気づくのが遅い」といった風情で場所を空け、ふいっと部屋に戻って行ってしまった。 玄関ドアを開けた向こうには、2週間ぶりに見る「恋人」の姿があった。