ラスサス家の朝です。
奥様はうっとりしたような黒い瞳のミァンさん。旦那様はとってもハンサムな カーランさん。ミァンさんは旦那様をカールと呼んでいます。お似合いの御夫婦です。
結婚して5年目のご夫妻には、子供がいません。
ミァンさんは先月から小さな猫を育てています。
子猫はミァンさんにとてもなついていて、おうちの中じゅうミァンさんにくっついて歩きます。
名前はケルビナ。ミァンさんは自分の娘のようにかわいがっています。
白っぽい地に黒い縞のはいった、アメリカンショートヘアです。
カールさんがお出かけするときは、ミァンさんにだっこしてもらって、一緒にお父さんを御見送りします。
「カール、今日はお夕飯はどうしましょう?」
「ああ、遅くなるから、先に食べていてくれ。」
「…おなかすいたら外で軽く何か食べてくださいね。 空腹のままでいると胃に悪いし…イライラするから。」
「ああ、わかった。…じゃ、行って来る。」
「ケル、お父さんおでかけよ。」
「にゃー。」
「ああ、またな、ケルビナ。」
お父さんはおっきな手でケルビナをなでなでして、おでかけしていきました。ケルビナはお父さんとお母さんが大好きです。* ラムサス家はケルビナのほかに、耳の垂れたうさぎと、フェレットというイタチみたいなながひょろいのを 飼っています。
ミァンさんはあまりきにせずに、3匹を一緒に育てています。
フェレットのトロネちゃんはせかせかしています。頭がとても良くて、戸棚を開けたり、お菓子の袋をあけたりするのが 上手です。ときどき、あまったらケルにおやつをわけてくれます。ケルはトロネちゃんと一緒にゴミ箱をひっくりかえしたり、ティッシュを延々とひっこぬいたりするのが大好きです。
うさぎのセラフィータはのんびりおっとりしています。 たいてい何もしないで、もくもくと葉っぱを食べたり、静かにしています。よくカールさんのおひざに載せられて、じーっと丸くなっています。
二人とも毛皮がふわふわで、だきゅっとするととっても気持ちいいのですが、 残念なことにケルとは言葉が通じません。
だからケルはいつも退屈です。
ミァンさんが掃除機をかけはじめると、思わず吸い口のところにひっくりかえって、遊んでもらったりしてしまいます。
「まあ、駄目よ、ケルビナ。」
ミァンさんはたまに「びゅーびゅー」と空気を吸い込む吸い口でケルのお腹を吸ってくれたりしますが、 まだケルが小さいので、吸い込んでしまうといけないといって、あまりしょっちゅうは吸ってくれません。
ミァンさんが御皿洗いをしている時は、流し台によじのぼろうとしたりもしますが、 流し台はすべってなかなか上手くのぼれません。
「まあ、ケルビナ。そんなところのぼっては駄目よ。」
それならと思って「みわくのかおり」のするビニールをにゅにゅっとゴミ箱から出してみたりしましたが…
「きゃー ! なにしてるのケル!やめて〜っ !! 」
駄目駄目づくしの毎日です。
お休みの日にはカールさんのおひざにも登ってみますが、カールさんはたいてい疲れてうとうとしている ので、あまりかまってくれません。
でも寝ぼけたカールさんがときどき思い出したみたいに撫でてくれるのは、嫌いではありません。
でもでもとっても退屈です。* ケルビナはときどき、「じんせいが つまんない」と感じるようになりました。
たいくつは、ねこにとって、死に至る病です。
ケルビナは、ミァンさんに呼ばれても、無視するようになりました。
つまんないのです。
カールさんの手をかっちゃきました。
ムカつくのです。
「…ケルビナもすっかり大人になってしまったようだな…。」
ある夜、ベットでカールさんが言うと、ミァンさんはとても寂しそうに黙り込んでしまいました。
カールさんは言いました。
「猫は大人になるのが早いんだよ。」
「…あんなに可愛かったのに。」
ミァンさんが言いました。
ケルビナはたまたまベッドの下で、それを聞いていました。
「けっ。」
ケルビナは思いました。
「ふざけんな。おまえのために うまれてきたんじゃ ねえよ。ウルァ。」
ベットルームからとっとと出ました。むかついたのです。
居間ではフェレットのトロネちゃんが檻から抜け出して、かさこそとスナックを食べていました。
「よこせ。」
パンチしておどすと、何か変な言葉を吐いて、トロネちゃんはきぃきぃと笑いました。
「わかんねんだよ。」
ケルビナが言うと、トロネは袋菓子を散らかしたまま、どこかへ走っていってしまいました。
えもいわれぬ寂しさを感じて、ケルビナは散らかった菓子のなかにずっと座り込んでいました。* 毎日毎日窓にへばりついて外を見ているケルビナの為に、ある日ミァンさんが窓をあけてくれました。
お外は5月の晴れやかなお庭でした。
空気はしっとりとしていて、植物のにおいでいっぱいです。
お庭には白や黄色のお花がこんもりと咲いていて、とっても甘い匂いがしました。
ケルビナは大喜びで、お庭を歩きまわりました。
日陰にはかわいいトカゲがいて、ケルビナが丸い手でむきゅっと押さえると、尻尾を切って逃げていきました。 ケルビナはもう、びっくりです。
緑の葉っぱは風がふくたびに「さわさわ」と揺れました。それも全部が、一斉に「さわさわ」っと揺れるのです。それはとってもすがすがしい音でした。
花のところにじっとしていると、まるまるしたシマシマのムシが「ぶうん」と大きな羽音をたてて 飛んで来ました。「うにゃっ!」とケルビナが飛びつくと、「さっ」とよけて、また「ぶうん」と飛んでゆきます。
ケルビナはお外が大好きになりました。
ケルビナがいい子にもどったので、ミァンさんも御機嫌です。
ときどきはお庭の手入れをしながら、ミァンさんはお庭でケルビナと一緒にお外でお弁当を食べたりしました。
おせんたくものを干したりしてるときもあります。
ケルビナのタオルのお布団は、洗って日向で干した日はふかふかになります。ちょっと石鹸くさくなりますけど。
それから、ミァンさんのお布団が干してある時は、チャンスです。
干してあるお布団の上はこの世のものとも思われない程、きもちいいのでした。* あるお休みの日、ケルビナはお庭を歩いていました。
カールさんが車を洗っていました。
車の洗剤はへんな匂いだからきらいです。
ケルビナはぴゅ〜っと走って、いつもは行かないお庭の日陰のほうへいきました。
そこで変なものを見つけました。
それは小さな小さなおうちでした。
小さいと言っても、ケルビナが入り込むのに不自由はありません。むしろ広すぎるくらいです。
カールさんたちのおうちに比べて、という意味なのです。
木でできたおうちでした。
なんか変な匂いがすこーし残っていました。…別の動物のにおいです。
おうちの隅っこには、白い毛がすこしだけついています。
匂いの主のものでした。
でもその子は、もう随分と長い間ここに来ていないようでした。それは匂いでわかります。
ケルビナはおうちを丹念にかぎ回り、少しの間、そこに座ってみました。
いったいこのおうちはなんだろう。どうしてここにあるのだろう。
ケルビナはぼんやり考えました。
そうしていると、カールさんがやってきました。
車の変な洗剤は綺麗に洗ったみたいです。
「ケル、ここにいたのか。いなくなったからびっくりしたぞ。」
カールさんはそう言って、ケルをおうちからひっぱりだしてだっこしました。
「にゃ〜、お父さん、このちいさいおうちはなあに?」
ケルビナは尋ねました。
でも人間はケルの言葉がわからないのです。…ケルが、トロネちゃんの言葉がわからないのと同じように。
だから、なんとなく聞いてみただけです。答を期待していたわけじゃありません。
カールさんには「にゃ〜にゃ〜」としか聞こえなかったことでしょう。
けれどもカールさんはケルビナをだっこしたまま、少しの間そこに立っていました。
そして、ケルビナの顔を見て言いました。
「前…お母さんと結婚したばかりのころ、犬を飼っていたんだ。 でも逃げちゃったんだよ。…これはその子のおうちだよ。」
「うにゃ。犬ってなあに?にゃがいの?丸いの?」
「…お前は逃げないでおくれ。お母さんが泣くから。」
カールさんが寂しそうにしたので、ケルはもちょもちょ身をよじって、肩の方によじのぼりました。それからカールさんのふわふわの金髪にじゃれつきます。
「あー、こらこら。ケル。痛い痛い。」
すると表のほうでミァンさんの声がした。
「カール、ケルビナ、いた?」
「ああ、いた。」
カールさんは応え、ケルビナを連れて表へ行った。ミァンさんがエプロンをして立っていました。
「よかったな、いて。」
カールさんがケルビナを手渡しながら言うと、ミァンさんはフフフと笑いました。
「そうね。いなくなったらお父さんが泣いちゃうわ…。」
「お父さんがじゃなくてお母さんが、だろう。」
「…シグルドがいなくなった時泣いて捜しまわった人は誰かしら。」
「…シグルドは俺の犬だったからな。」
カールさんはひらひら手を振って、先に家に入ってしまいました。* それから何日かが過ぎた、雨の日のことでした。
雨の日はお外禁止の日です。ケルビナはあくびばかりしてすごしていました。
セラフィータがもくもくとたんぽぽを食べているのを見ていると、余計眠いのです。
「ねむいんじゃウルァ。」
くだまいてみましたが、無視されました。
多分セラフィータは、ケルビナの言葉が理解できないのでしょう。
…多分、というのは、たんなるボケかもしれない可能性も捨て切れないからですが。 期待してもはたしていつ真実がかくにんできるものやら、けんとうもつきません。
夜御飯を食べ終わって、トロネちゃんとじゃれあいっこしているところへ、カールさんが帰ってきたみたいです。
ピンポーン、ピンポーン、と、呼び鈴がせわしい感じで鳴りました。
「お父さんだわ。…どうしたのかしら。」
ミァンさんは急いで鍵をあけにいきました。
「おかえりなさい…キャアッ!」
ミァンさんの悲鳴を聞いて、ケルビナはぴゅーっと玄関に走って行きました。
「…轢いた。駄目かもしれん。」
カールさんが硬い声で言いました。
ケルビナはカールさんを見上げてびっくりしました。
カールさんはものすごく大きな動物を抱えて、家に入ってきました。動物だとわかるのは匂いがしたからです。そうでなければ腕一杯の巨大な古モップかとおもったことでしょう。
「…奥の部屋に何か敷くわ。」
「ああ。」
「…それにしても大きくて首の長いテリアね…。」
「…アフガンハウンド。」
「え?! これが!?」
「…見るのはあとにしろ。」
カールさんのスーツも犬同様、汚れてドロドロでした。
ケルビナはしずしずとついて行きました。
奥の部屋にミァンさんが新聞紙を敷き、その上に古い毛布で大きな寝床をつくりました。
カールさんはその寝床に大きなのを横たえ、古いタオルを持って来て、自分はずぶぬれのまま、一生懸命犬をふいています。…汚い雨水でドロドロの毛皮はひどくからまっていて、手がやけるみたいでした。
そこでケルビナも近くに行って、手伝ってあげることにしました。
のぞきこんでみました。
長い顔をした、大きな動物でした。体はケルビナの何倍もあります。
そーっと、汚れた顔を舐めてみました。顔の色は黒っぽくて、体は汚れてるせいもあってか、灰色っぽくみえます。
濡れてぺったりした毛皮が哀れでした。
ミァンさんがお湯をバケツに汲んできました。カールさんは手とタオルを洗いました。
「…どこをけがしているの?」
「足は折れてるみたいだ。…道で添え木してきた。あとはわからない。」
「ウヅキ先生に電話してみるわ。来てくださるかもしれないから。」
ミァンさんは近所の獣医さんに電話をしました。 するとしばらくして、いつも行っているところの獣医さんがやってきました。カールさんの古いお友達です。
「あ〜、どれどれ。見てみましょう。」
眼鏡をかけたとぼけた獣医さんもやっぱりずぶぬれでやってきて、熱心に診察しました。
「うーむ、こっちも折れてる…かな。」
「…どうなる?」
「…まあ様子見ましょう。…血は吐いてない?」
「ああ。…交差点だったし、曲ろうとしてたから、ほんの10キロもでてなかったと思うんだ。 踏んだ感じなかったし。ボンネットの上にばーんと飛んで来て…。」
「うんうん、…まあ、そうですね、このようすならきっと大丈夫ですよ。…あなたもびっくりしたでしょう。」
「ああ。」
「明日、医院のほうに連れて来てください。レントゲンでくわしく見て、骨固定しますから。」
「わかった。」
「…先生、お茶が入りましたから、どうぞおあがりください。」
「あー、すみません、どーもどーも。」
人間たちが出ていった部屋で、ケルビナは大きな犬の頭のほうに座りました。
犬はすうすう息をしています。
「これが犬?うん、これが犬にゃ〜。おっきいvvうふv」
近寄ってもう一度顔を舐めてみた。
「起きないかにゃ〜。起きないかにゃ〜。起きてにゃんか言わにゃいかにゃ〜。」
すると、犬は薄く目を開けました。
「あっ。」
びっくりしてケルビナが目を真ん丸にすると、犬はクン、と鼻を鳴らして、また目を閉じました。
ケルビナはびっくり顔のまま、ずっとドキドキしてかたまっていました。* 犬のけがは重症ではあったけれど、幸い、命にかかわるものではありませんでした。
犬は翌日には目をあけて、ミァンさんやカールさんが口にいれてくれるものを、ちゃんと食べました。
「…よかった。このまま元気になってくれればいいのだが。」
「そうね。飼い主さんもきっと心配しているわ。…うちで預かっているって警察にとどけておきましょう。 …高いんでしょう、ボルゾイって…。」
「ボルゾイじゃない。アフガンハウンド。…ビラとかも貼っとくか。写真とって。」
人間たちがそんな会話をしているひざの横で、ケルビナは犬に手でさわっていました。
「まあ、駄目よ、ケルビナ。その子体あちこち痛いの。触らないのよ。」
「いたいにゃ〜?」
ケルビナが首を傾げて覗き込むと、犬はぼんやりとケルビナを見ました。
「いんや、別にたいして。だが動けない。」
犬の目がそう言っているような気がしました。可哀想なので、ケルビナは犬の顔や耳を舐めてやりました。
「ケルビナったら。」
「…よし、と。じゃ、あとはケルビナにまかせて、お父さんは会社だ。頼んだぞ、ケルビナ。」
「うにゃ、わかったにょ、お父さん。」
カールさんはケルビナの頭を撫でて、立ち上がり、部屋を出て行きました。
そういうわけでケルビナは、その犬の看病をすることにしました。
…看病といっても枕許に座っているだけですが。
その夜カールさんがおうちへ帰って来ても、まだケルビナは「看病」していました。
「…がんばりやさんだな、ケルビナ。」
「なんだか気に入ったみたいなの。時々舐めてるのよ。」
「…まあ、うちはイタチとうさぎが楽しく同居してるような家だからな。…飯にしよう。」* やがて一週間ほどで、犬は起き上がるようになり、びっこをひきひき家の中を歩き回るようになりました。
どこかの家の屋内で飼われていた犬らしく、躾もできていました。
非常に無口な犬で、まったく鳴きません。
そしてびっこをひいていても、動作はきびきびしていて、落ち着いていました。
「きっとどこかいいおうちで厳しく躾けられた犬なんだわ。」
「ウヅキにも聞いてもらってるが、このへんでアフガン飼ってるうちなんか誰も知らんというんだ。」
「好き嫌いしないでなんでも食べてるけど…どうしましょう、飼い主に返したとき、太ってるとか、 痩せてるとか言われたら…。なんだか高級なドライフードだけで育っていそう…。」
「多分血統書付きだろうから、そっちのほうでも調べてくれると言っていたよ。」
「早くちゃんと歩けるようになるといいわね。」
「そうだな。」
…とかなんとかいう人間の都合はどうでもよくて、ケルビナと犬はすっかり仲良しになりました。
犬はケルビナの言うことが、何だかわかっているみたいな顔をしています。
だからケルビナは犬にたくさんお話しました。
犬はなんにも言いません。でも、少し笑ってるみたいです。
犬が元気になってきたので、ケルビナは、まだ泥でごわごわしている毛皮にのっかってみました。
犬はじっとしています。怒りませんでした。
ケルビナは犬とくっついて寝るようになりました。
犬はそれも別に嫌がりませんでした。* 二週間ほどたった休みの日、カールさんは犬をお風呂にいれました。
そしてはさみとクシを片手に苦心の末毛並みをふかふかに整えると、犬は見違えるほど立派になりました。
体の毛の色は、灰色と白と薄茶が混ざっています。しっかり立つと、背の高さはケルビナの何倍もありました。さらに首がとても長いので、顔の高さはもっと上です。
カールさんはどこからもってきたのか、首輪に丈夫そうなおさんぽ紐をつけて、 犬を散歩につれだしました。
ケルビナも久しぶりにお庭に出ました。外の気候はけっこう暑くなっていました。 さいている花もまえとはかわっています。しましまのハチも、ぶんぶんと増えていました。
「もうすぐ夏ね、ケルビナ。」
草むしりをしながらミァンさんが言いました。
「…ねえケルビナ、あの大きいわんこちゃん、飼い主さんみつかるかしら。」
ミァンさんが言いました。
「…うにゅ。」
ケルビナは、見つからなければいいなあ、と思いましたが、ただミァンさんがむしって一まとめにしていた草を手でばらばらにしただけでした。
「まあ、駄目よケルビナったら。もう。」
ケルビナはぴゅーっと逃げました。
そして物干に干してあるカールさんのお布団にのっかって、のふっ、とうつぶせにひっつきました。
犬がいなくなっちゃったらどうしよう。
ケルビナは不安です。
すこーしそう考えると、とたんに、カールさんと犬がもう一生帰って来ないような気がしてきました。
ケルビナは布団に爪をたててむぎゅむぎゅこねくりました。
「ママー、おとうさんはー?」
にゃーにゃーとケルビナが尋ねると、ミァンさんは首をかしげました。
「どうしたの?雀でもいたの?」
…いいんです。仕方ないのです。だって人間と猫はちがうもの。* その日カールさんはちゃんと犬を連れて帰ってきました。けれども、とても難しい顔でした。
「おかえりなさい、何かあったの?」
ミァンさんが尋ねると、カールさんは「うむ…」と言いました。
「…初めてあの犬が吠えるのを見た。」
「あら…。よそのワンちゃんとケンカでもしたの?」
「公園でウォンの飼ってる雌のコリーとさんざん吠えあってな…。」
「まあ。それはきっとカールの気持ちを察したのじゃない?このあいだもウォンさんのせいで 会社でさんざんだったから。…売れっ子のイラストレーターだからってやりたい放題仕事遅らせて いい気なもんだって、ずーっと言ってらしたものね。 でもそれもそうよね、貴方が印刷屋さんや社長さんに叱られたのだもの。」
「…別に、あの件はもう済んだことだし…結果的にあのポスターは好評だったんだから、 もういいんだ。」
「でもきっとわんちゃんは察したのよ。犬って主人を守ろうとするっていうし。…自分を偽るのはどうかしら。」
「…おまえは俺をそんなにロクデナシにしたいのか。」
「どうして?…わたしはいつだってあなたの味方よ、カール。きっとわんちゃんも同じよ…。」
カールさんは少しイライラしているみたいです。ケルビナは二人の足下を離れて、寝床に帰った犬のところへ 行きました。
犬はいつもとかわりなく、のんびりしていました。
ケンカしてきたなんて、信じられません。
「にゃ〜、おかえり。」
ふかふかの毛皮に顔をくっつけると、お日さまの匂いがしました。
犬はケルビナの顔をなめてくれました。
ただいま、と言ってるような気がしました。
ケンカの話はどうでもよくなった気がしました。
「ねー、…いつかおうちに帰っちゃうの?」
そう尋ねると、犬はケルビナをそっとくわえて、自分の胸のところにひきよせました。 ケルビナは犬の毛皮に埋もれて気持ちよくなり、あくびを一つして、眠ってしまいました。* 「今日は! わんちゃんの調子はどうですか?」
「あら、ウヅキ先生。…どうぞ上がってください。」
ある日の午後、馴染みの獣医さんが突然尋ねてきました。
獣医さんはカールさんの高校時代の同期です。ときどきふらっと遊びに来たりするのですが、 カールさんがいないときにくるのはとても珍しいことでした。
ケルビナが顔を見にいくと、獣医さんはニヤッとわらって
「…注射しますよ〜ケルビナ〜」
と、からかいました。ケルビナは「むう」と思って、くるりと向きを変えて立ち去りました。
「どれ、ちょっと犬の具合を見ておきましょう。」
いつものように先生はのほほんと言い、勝手に犬のところへ行って、治った足の具合を確かめました。
「…うん、大丈夫みたいですね。それに随分きれいにしてもらって…ちょっと歩いてごらん。」
先生が犬を引っぱりあげると、犬は立ち上がって少し歩きました。
「…外を歩かせたらしいですね。びっこひいてましたか?」
「…カールが連れて行ったので私はわかりません。でも、最近ではもう家の中では不自由せずに歩いているみたいですわ。」
「そうですか。」
「…お茶いれますね。」
犬は先生についていって、テーブルの下にすわりました。 二人は椅子にすわり、ミァンさんのいれたお茶を飲みながら、クッキーを食べました。
「…奥さん、実は、私のところにたまに来る方が…この犬に心当たりがあるらしいのです。」
「…まあ。」
ミァンさんは複雑な顔をしました。
勿論、飼い主さんが見つかってくれて嬉しいのですが、一緒に暮らしているうちに、自分のうちの一員のようにも 感じていたので、手放すのはやっぱり少し寂しいのです。
「…ただその方はカールとはあまり仲がよろしくないみたいなので、私の口から伝えてほしいと…。」
「…で、先生は私からカールに伝えてほしいのですね?」
ミァンさんがチロッと横目で見ると、先生は「いやあ、ははは」と頭を掻いて笑った。
「…すみません。なんというか…カールは仲間意識の非常に強い人なので… 扱いが難しくて。わたしがその人と仲良くしていると言って怒り出されては厄介なものですから。」
「…カールはそんなことで怒ったりしませんわ。」
「…どうでしょうね。」
先生は相変わらずとぼけた調子だった。…クッキーが口に合ったらしく、さくさくと食べ続けています。
「…この子、先日よその犬に噛み付いて怪我をさせたのは御存知ですか?」
「え」
ミァンさんは驚きました。そして当惑して言いました。
「そんな…こんな大人しい子が?…カールの知り合いの飼っているコリーとさかんに吠えあったとは聞きましたけれど。」
「ええ、そのコリー、そのあとうちにきましてね。…まあ大した怪我じゃないから、消毒だけしかしてませんが。 …それに犬同士にしてみれば、正当なコミュニケーションですからね、どっちが怪我をしようが、 それはそれです。…でも飼い主はそうはいかないんですよ。」
「…そう…でしょうね。私だってうちの猫たちが怪我なんかさせられたら…。」
「…実はこの子、二つばかり向こうの町の子らしいです。…知ってる人は知ってるはずだって、 彼は言ってました。ただ、皆かかわりあいになるのが嫌で黙っているんだろうって。」
「…どうして?」
「…マフィアの家で飼っているらしいです。」
「…」
「きのうその町の獣医に電話してみたら、この子のこと、知っていました。 名前はイブリーズ。2才だそうです。」
ミァンさんはすっかり黙り込んでしまいました。
「…彼はカールが犬を自分にけしかけたのかもしれない、と疑っています。…何か仕事上のトラブルがあったそうですね?」
「…ええ。…でも…済んだことだからと…カールは…。」
ミァンさんはしどろもどろです。…嘘だと、自分が一番思っています。
「…ふむ、カールは済んだことだと言ったのですね。」
「ええ。」
「…いえ、奥さん、向こうもかなりの人物ですから、向こうの言うことが全部正しいというわけではないんです。 それに…あのコリーもかなり凶暴で、雌だというのにけんかばかりしているのですよ。大形犬なのだからきちんと躾けろと 口をすっぱくしていっていますが、なにやら哲学的な言い訳を頑固に押し通すようなところがある飼い主でしてね。」
「…そう…ですか。…その人には…あとでドックフードでも持って御挨拶に行きますわ。…でも… マフィアのほうはどうしましょう。」
「…事故のことは黙っててもいいんじゃないかなあ。…治ってるし。 …そーっと行って玄関の前につないでくる、という手もありますよ。」
「…でももし違ったら大変なことに。」
「…まあその件は、カールも交えてあとでゆっくり話しましょう。わたしもお手伝いしますよ。 …それよりも、…これはお二人のことだから、私が口をだすのはどうかと思うんですけれど、 …カールが違うと言うのなら、嘘でもいいから信じてあげたほうがいいんじゃないかなあ。」
「…それはカールのためにならないと思いますわ。」
「…わたしは奥さんがドックフードを持って謝りに行ったら、カールはとても傷付くと思いますよ。 悪くないならそんなことする必要はないです。」
「御挨拶に行くだけです。…敵意はないって、友好的に示すだけですわ。一応形だけ。難くせ付けられるのは困りますから。あやまるつもりなんてありません。 …たとえカールがけしかけたのだとしても、そんなの自業自得よ。あの人のおかげでカールがどんなに酷い目にあったか…。」
「…そうらしいですね。彼も負い目があるから、けしかけられたのかもしれないと思ったのでしょう。 でもね、カールは卑怯なまねの嫌いな人です。それは御存知でしょ。」
「…そのスタイリズムの裏側に、どれほどの恨みつらみを隠しているのかもまた、よく存じてますわ。」
先生は少し黙りました。
ケルビナはどきどきしながら、戸棚の下から覗いていました。
犬…イブリーズ…は、いつもどおり静かにしています。
人間の言葉がわからないのかしら…と、ケルビナは少し不安になりました。
だってこのお話は、なんだかとても深刻そうで、しかも犬に関係大有りなことなのです。
犬は静かにしすぎな気がしました。
すると、ケルビナの視線に気付いた犬が、突然ぱっふんとふさふさの尻尾を動かしました。
ケルビナはびっくりして、尻尾をじっと見ました。
ぱっふん。また動きました。
ケルビナの胸の中で、なにかがムラムラッとしました。
もう一回犬が尻尾を動かしたとき、ケルビナは思わず戸棚の下から飛び出しました。 そして矢のような速さで尻尾に飛びつきました。
しかし、なんと尻尾はケルビナの手をかわして、悠々と向こうへ落ちたではありませんか!
ケルビナ夢中でそっちに飛びつきました。
けれども尻尾は、今度は今までケルビナのいたほうにありました。
さあ大変です。
狂ったように戻るケルビナの鼻をかすめて尻尾はまた逃げて行きます。
ケルビナが今度は垂直に飛び跳ねて待ち伏せすると、尻尾はくるんと回ってもとの場所へ。
さらに飛び跳ねるケルビナの下を尻尾は素早く移動してゆきます。
興奮してあばれまわるケルビナなどまるで見ていないようなそぶりで、犬は澄ましたまま。
「…なにしてるの、ケルビナ。」
ぼそりとミァンさんが言いました。
そのときタイミングの狂ったケルビナは、かえってそのせいで「はぐっ」と尻尾に噛み付くことができました。 でも思いっきり噛んだわけじゃありません。しっかり押さえただけのつもりです。
しかし「ぶんぶん」と尻尾はケルビナをふりはらって、また逃げていってしまいました。
「ああん、お母さん!」
ケルビナが不満げにミァンさんに言うと、ミァンさんは溜息をつきました。
「少し静かにしていて、ケル。」
「…仲良しなんですね、ケルちゃんと。」
「…ええ、ケルはずっと看病してたから…。」
「…もうすっかりここのうちの子みたいだ…。」
ミァンさんは答えませんでした。
「…カールは奥さんに会社のこととか、話すのですね。」
「ええ、ときどきは。」
「…じゃあカールにイヤなことがあったりすると、奥さんもさぞかしうんざりなさるのでしょうね。」
ミァンさんは目を上げた。
「どういう意味ですか? 」
「…いいえ、別に。グチは言う方はすっきりするけど、言われるほうはもてあましますよね。 …いやあ、うちの妻によく言われるんですよ、もう少し口数少なくなれないのってね。はははー。」
先生はトボケた笑いをしらじらしく付け加え、顔は少し陰険になりました。
「…じゃあ、このあたりで失礼いたします。…犬を返すとき、お手伝いできることがありましたらお手伝いしますよ。 カールにもそう伝えて下さい。」
そして口をつぐむと、そのまま大股に歩いて出ていきました。
「あん、しっぽー!」
…ケルビナはまだ尻尾に遊ばれていました。*